シーターは大魔王ラーヴァナによって、遠く離れたランカー島に連れてこられました。ラーヴァナはランカー島の山の頂きに広大な敷地と豪華な王宮をもち、ここからすべての悪魔たちに指令を出し、ランカー国を統治していました。ラーヴァナはシーターを宮殿に招き入れ、侍女たちを呼んで、「この美女の世話をし、装身具でも宝石でも絹の衣でも、彼女の望むものはすべて与えよ」と命じました。シーターは猟犬の群れに取り囲まれた鹿のように縮みあがりました。ラーヴァナはシーターに自分の富と権力のすごさを見せつけるため、宮殿内を連れまわし、自分の栄華を誇りました。しかし、どんな物もシーターの心を引き付けることはできませんでした。シーターは嘆きました。「ああ!なぜ私はあの金色の鹿に魅了されてしまったのでしょう。なぜ私はラーマにあの黄金の鹿を捕まえてほしいと頼んでしまったのでしょう」シーターはようやく我に返り、金色の鹿に夢中になった自分の軽率な行動を深く後悔しました。しかしこの場に及んで後悔しても、もうどうにもなりません。
ラーマが森へ行くと決意したとき、シーターはラーマについていきたいと願い、自分の所有物のすべてを無償で手放しました。所有物への執着を捨てることによって、シーターはラーマ、すなわち神を手に入れることができたのです。しかし森の中で金色の鹿を見てむしょうに欲しくなり、そこに執着が生じたとき、シーターはラーマ、すなわち神から離されました。このように人は貪欲と結びついて、際限なく欲望を追いかけている限り、ラーマ、すなわち神を手に入れることは望めないのです。過度に欲望に執着すると、苦しみが生じます。これは、人は世俗を捨てなければならないと言っているのではありません。そのまま世間で暮らして社会的義務を果たしながら、社会生活と霊的生活のバランスを取らなくてはならないということです。マインドは人間の五感をとおして外部の情報を取り入れ、人はその刺激や誘惑に反応して貪欲になったり、無意識に否定的な感情が湧き上がったりしています。マインドは落ち着きなく絶えず揺れ動いていて、人に内なる神性がそなわっていることを忘れさせ衝動的に行動するよう誘うのです。マインドが感官ではなく、内なる神の方を向くようにすれば、マインドの動きを静め、心の平安を得ることができるのです。
すべてを思いのままにあやつってきたラーヴァナは、シーターだけは思い通りにできませんでした。とうとうラーヴァナはシーターをアショーカ園(無憂樹林苑)に連れて行き、ラーマを侮辱する言葉を吐きながらこう言いました。
「我が王国は大海に囲まれている。ここは誰にも占領されることはないのだ。あのラーマでさえ、我の腕からそなたを奪い返すことなどできまい。ここでよく考えることだ。一年の間待とう。我の言ったことをよく考え、我を夫として迎えるのだ。もし一年経っても強情を張るならば、そのときは覚悟するがいい!」ラーヴァナがラーマを中傷する段階まで身を落としてシーターを脅したとき、シーターはラーヴァナの顔を見ず、一本の草を引き抜いてラーヴァナの前に投げ、言いました。
「あなたはこの草の葉ほどの値打ちもありません。わたしは人間の中でもっとも偉大な方の妻です。わたしはラーマとの結婚の誓いを守り、どんなことがあろうとも夫ラーマを裏切ることはありません。わたしは夫ラーマに誠を尽くす覚悟です」シーターは自分の衣で顔をおおい、決してラーヴァナの顔を見ることはありませんでした。
怒ったラーヴァナは三人の召使いたちにシーターをアショーカ園に監禁し、よく見張っているようにと命じました。その三人の召使いは、ラーヴァナの弟ヴィビーシャナの妻と二人の娘でした。ヴィビーシャナの妻サラマーと二人の娘アジャターとトリジャターの三人は、シーターに慰めの言葉をかけて沈みがちな気持ちを支え続けました。シーターは、ランカーにもそのような善人がいるのかと感嘆しました。実際、シーターが苦しい試練を勇敢に耐えることができたのは、この三人の優しい慰めのおかげでした。後にシーターは、サマラーの夫がラーヴァナの弟のヴィビーシャナであることを知りました。善良なヴィビーシャナは、兄ラーヴァナによってランカーから追放されていたのです。人は過去生から蓄積してきたカルマの報いとして、同じ母親から生まれた子供であっても、正反対の性格、まったく異なった経歴をたどることがあるのです。ヴィビーシャナは兄の非道な振る舞いや、色欲のなすがままに乱れ遊ぶ兄の行為を見ていさめたのです。すると、ラーヴァナとその息子インドラジットは激怒し、ヴィビーシャナをランカー国から追放しました。
ラーヴァナは、聖典に精通し、礼拝儀式に熱心な偉大な学者でしたが、神性アートマの原理を理解しようとしませんでした。そのため感覚の言うままに行動してしまったのです。ラーヴァナは完全にエゴの罠にはまっていました。それは、感覚の抑制に努めてこなかったからです。ラーヴァナは大切な教えをみじんも実践していませんでした。感覚を野放しにしているとき、五感に向いているマインドで生じたエゴは、油断のならないずる賢いもので非常に強力です。ラーヴァナは人間の知性の一番奥にあるブッディの力を知っていたはずですが、そのブッディの力、すなわち英知を引き出す生き方をしてこなかったのです。感覚の抑制に努めているならば、ブッディをとおして内なる神性意識(良心)がはたらき、識別して行動する英知の力(ブッディ)が活動するようになります。感覚の抑制に努めてこなかったラーヴァナは、自分の心の中に隠し持った情欲の火花を、別の善なることに転化することができませんでした。
このように、訓練されていない心(マインド)に生まれるエゴはあまりに強力なので、人は内なる神性を見失ってしまいます。常に神を思い起こし、感官に向いているマインドを神の方へと向ける訓練をして、感覚の抑制に努力していくならば、内なるブッディを通して神がはたらき、善へと導かれます。神を思い起こして、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すことは、エゴの束縛から自分を守ることにつながるのです。
ラーヴァナはシーターが心変わりをしてくれることを期待して、アショーカ園の庭園にこの上なくすばらしい装飾を施しました。輝くばかりの荘厳な装飾を見て、シーターが自分を受け入れるのではないかという愚かな希望をもってのことでした。しかしシーターは、世俗的で儚い美しさには目もくれませんでした。十か月にわたり、シーターはアショーカ園に監禁されていましたが、ラーヴァナはシーターに触れることはありませんでした。もしシーターの許可なく強引に彼女に触れれば、自分が灰に変わってしまうということをラーヴァナは知っていたのです。この悲しい監禁生活の中で、シーターは常に神の化身ラーマを黙想し、絶えずラーマの御名を唱え、瞑想を怠りませんでした。なぜなら、「悲しみが襲ったら、神の御名という暖をあなたの心に巻きつけなさい」とラーマから教えられていたからです。シーターが羅刹たちに見張られてランカーに監禁されていたとき、臆することなくあらゆる困難な状況に立ち向かう勇気と自信をシーターに与えたのは、ラーマへの愛、すなわち神への愛でした。シーターは絶えることなく、ラーマの御名を黙想していました。