著者ヴァールミーキについて

インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」を書き著した最高の詩人ヴァールミーキは、かつてラトナーカランという名の盗賊でした。森を通りかかる旅人を襲っては盗みを働いて、妻と三人の子供を養っていました。残酷な男で、神とか道徳とか倫理などはまったく考えたことなどありません。彼は自分の行動を疑うことすらなかったのです。ある日、七人の大聖者がたまたまこの森を通りかかりました。いつものようにラトナーカランはこの旅人たちの前におどりでて刃物を振りかざし、おとなしくすべてを出さないと命はないぞと脅しました。七人のリシ(聖者)たちは不滅のアートマを覚っていて「真理(神)」のなかに確立していたので、盗賊の脅しにも動転することなく落ち着きはらって盗賊にこう言いました。「わたしたちは死を怖れてはいないのだよ。持っているものをすべておまえにあげよう。だがその前に一つだけおまえに答えてほしいことがある」ラトナーカランはこの申し出を受け入れました。すると聖者たちは盗賊に、いったいこのような恐ろしいことを誰のためにやっているのかとたずねました。「そりゃあ、妻や子供たちのためさ」と盗賊は答えました。それを聞いて聖者はさらにたずねました。「おまえの妻や子供たちは、おまえの罪を一緒に引き受けようと思っているのかい?」ラトナーカランはこの問いに窮して、妻子のところに行って聞いてみたいと思いました。七人のリシたちが盗賊の戻るまでその場所から離れないことを約束すると、すぐに彼は家の方に走って行き、妻に向かって、妻の生活のために犯している自分の悪行の結果を分かち合うつもりがあるかどうかをたずねました。「とんでもない! 悪行の報いはあなたが一人で受けるのよ!」と妻は答えました。蒼白になったラトナーカランは子供たちの方を振り向いて、せめて子供たちとは心が通じているだろうと期待しました。でも子供たちもやはり、父親の罪を一緒に受けようという子は誰一人いませんでした。ラトナーカランは深い衝撃を受けました。そして、逃げずにその場で待っていた七人のリシたちのもとに走り寄ってその足元にひれ伏し、ゆるしを求めました。その聖者の足元に心から額ずき、神に完全に身をゆだねたい気持ちになりました。七人のリシたちは深い慈愛をもってラトナーカランに教えをほどこし、マントラを伝授し、神を黙想して「ラーマ」の御名を唱えることをすすめました。そして神を覚るまで自己を浄めるための修行を実践するようにと諭しました。ラトナーカランは、それまでに感じたことのない深い愛をはじめて感じました。そして、その場に座りこみました。七人のリシたちは本物の聖者であり、彼らの教えは真実であると信じることができたのです。そのうちの一人が、大聖者ヴァシシュタでした。ラトナーカランは、これまで誰からも得ることができなかった深い慈愛をはじめて感じたのです。心がとても安らぎました。そしてこれまでの自分は、マインドの奴隷のようになって激しい感情に振りまわされ、罪を重ねてきていたことを悟ったのです。ラトナーカランは、激性の段階から浄性へと自らを変容させる道を選びました。世俗に執着する思いを放棄して霊的に飛躍するには、並外れた勇気が必要です。ラトナーカランは物質世界での恨みやもつれ合いを放棄する勇気をもったのです。森に隠遁する人のことを、世間では家族と財産を捨てすべてを放棄した人と見ていますが、それは真の放棄ではありません。真の放棄とは、悲しみと喜びを同じ見方で考えることができることです。批判と称賛を同じ気持ちで味わうことができることであり、損失と獲得の両方を同じ考え方で辛抱したり楽しんだりすることができることです。真の放棄は、二元性の感情の撲滅です。物質世界とのもつれ合い、すなわち二元性を放棄する勇気こそが、偉業なのです。ラトナーカランは、勇気ある選択をしたのです。そしてその森のなかで何年ものあいだ彼はそこにそのまま留まり、ラーマを憶念して「ラーマ」の御名を唱え、聖なる教えと神の御姿を黙想し続けました。黙想が深まると自然に自分の肉体を忘れて、岩のように不動の姿勢で瞑想に没していったのです。人間の五感をとおして外界と接触しているマインドが、五感を制御して外界との接触から身を引くと、執着するものが何もなくなり、心(マインド)は不動になります。そして心の平安が訪れるのです。感覚から侵入してくる刺激や誘惑にマインドが反応して悪に向かうのを退けるために、マインドを神に向け、神を黙想することは、感官を清らかに保つための唯一の手段です。神の御名を唱えることは、神を思い起こすことにつながらなくてはなりません。神を思い起こすことは、感官に向いてグナの奴隷のようになっているマインドを、内なる神性の方へと向かわせることを可能にします。ラーマの御名は、創造主ブラフマーと三位一体になっているヴィシュヌ神とシヴァ神をあらわす名です。仏陀もキリストも他の神々もラーマと異なる存在ではなく、彼らはすべて一体なのです。イエスも仏陀も他の神々も、一つの生命、一つのハート、一つの意志となって共にはたらいているという一体性の原理を理解して、仏教徒がよりよい仏教徒になれるように、キリスト教徒がよりよいキリスト教徒になれるように、イスラム教徒がよりよいイスラム教徒になれるように、ヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒になれるように、お互いの信仰を認め合うことが大切なのです。それぞれが自分の信じる神の栄光を憶念して神の御名を唱え、神への信愛を深めていくことによって、自分の行為は神への捧げものとなり、因果律(カルマ)の束縛を受けなくなります。感官に向いているマインドを常に神の方に向け、すべての行いを神に捧げ、すべての仕事を神の御名において為すならば、マインドに潜む内なる悪(グナ)に打ち克ち、困難を克服する力が与えられ、正しい道へと導かれます。どの神を思っても、それは各自のハートに常住する内なる神アートマに通じているのです。

感覚をとおして湧き上がった思いや欲望に執着していたマインドが、内なる神へと向かうと、人間の理智鞘の高次の層にある英知ブッディ(識別して行動する力)がはたらくようになります。感覚の奴隷のようになっているマインドで生じた思いを、精査のためにブッディに差し出し、内なる英知ブッディの裁定に従って行動するよう訓練していくならば、マインドは浄められ、ハートにある神性意識(良心)によって善へと導かれます。感覚が悦楽にとらわれて貪欲に何かを欲しがるとき、神を思い起こして、「私がしたがっているこの行為は、内在の神の御心にかなうことだろうか?」この問いかけにより、人は低劣な行動におちいることはなくなっていきます。こうして感官に向いている心(マインド)を、内なる神の方へと向けて、内なる神に信頼を置くようになると、ハートの扉が開き、理智鞘にある英知ブッディ(識別力)をとおして神がはたらき、恩寵が流れ込みます。そしてハートの中の神性意識(良心)によって、識別して行動する力(英知ブッディ)が活動を始めるのです。そうした絶え間ない訓練によってエゴは消滅し、あらゆる執着から解放されて真の自由を獲得するのです。そして、アートマの至福のなかで永遠に生きることができるのです。魂の中の真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。すべての人の生命は内なる神アートマによって維持され、すべての人のアートマは一つに結ばれて一体になっています。そこは自他の区別のない聖域です。あらゆるものの中に神を見て、多様性の中に一体性の原理があることを認識できれば、別個であるという肉体意識を超えて、「人類は、アートマという神の愛で結ばれた一つの家族である」との理解に到るのです。この一体性の感覚を、自分の思いと言葉と行いに反映させていけるようになれば、内なる神性が外側に輝きでるようになります。

神を憶念して神の御名を唱え、聖なる教えを黙想することは心に仕事を与えることであり、心を正しい方向に忙しくさせることによって悪い行為に関する思いを絶ち、雑念を遠ざけ、心を静かにさせて集中することを助けます。この集中の段階から黙想の平野を横切ってその黙想が深まると、それは自然に瞑想へと移行します。瞑想は完全に感覚を超えています。瞑想に深く入って行くにつれて起こるのは、肉体を忘れることであり、それによって自分は肉体ではないという直接的な体験が得られるのです。人間は肉体だけの存在ではなく、心臓の奥深くに霊魂が宿っている霊的存在です。人間の魂の中に神性を有する真の自己が住み、そこに神の霊アートマが鎮座して、一人ひとりが神性に目覚める瞬間を待ってくれているのです。肉体は束の間ですが、魂の中の真の自己は永遠に生き続けます。ラトナーカランを凶悪な犯罪者にした力とエネルギーは、神へと向けられた神聖な欲望と行動に変えられ、彼は神実現に至ったのです。ラトナーカランは肉体的な感覚を失い、五感を超越したのです。すなわちそれは、五感が制御されたことによって、マインドが利己的な思いと衝動と執着から解放され、心(マインド)が不動になったことを意味します。ラトナーカランは、マインドが外界の刺激や誘惑ではなく、神の方を向くよう、神を黙想し神の御名を唱え続けたのです。肉体的感覚を失くすのは、そのように無理なく自然に起こるのでなければなりません。この世的な対象に向けられた欲望は快感と苦痛を生みます。しかし、神を求める欲は至福を与えるものであり、苦痛を生むものではないのです。マインドが神の方を向き、ひとたび神は自分の内にいると信じれば、心(マインド)は不動に保たれます。

神の御名を唱えることに素晴らしい効能があることに気づいている人は少ないです。神の御名のバイブレーションは自分の心を落ち着かせ、自分の内なる神性に光を灯してくれるのです。空気が神の御名のバイブレーションで充電されると、環境全体が浄化されます。神の御名を唱え、よい思いで心を満たし、よい行いをし、地上の空気が神聖なバイブレーションに満たされるなら、そうした神聖化された空気を吸う人は、純粋な思いを抱くようになります。神の御名の唱名で、第一に必要とされる条件は、思いと言葉と行いの純粋性です。舌から漏れてくる神の御名は、精神を媒介としたものでなくてはてはなりません。信心をもって神を憶念し、神の御名において、思いと言葉と行いの三つを一致させれば、心は浄化され、献身の感情が養われるのです。神の御名の唱名や神に捧げる歌(バジャン)は音波の形でエーテルに染み込み、大気全体を埋め尽くし、環境全体を浄化します。わたしたちが作り出す音は、大気に反響するという事実を忘れてはなりません。その音は波としてエーテルのなかに永遠に留まり、音を発した個人から離れた後も残っていくのです。現在、大気は汚染され、ひどい騒音にまみれています。これは人間のよこしまな思考や感情が生み出す結果であり、ここから邪悪な行動が生まれてくるのです。まさにこの地上の空気は、憎しみと貪欲な欲望と病的な競争意識からくる妬みと支配欲によって汚されています。人間が発する言葉や思いは、バイブレーションとなって大気に反響するのです。大気を浄化しようとするなら、大気を澄んだ神聖な音で満たす必要があります。そのためには、思いと言葉と行いを純粋にしなくてはなりません。感覚の抑制と心のコントロールは大切な霊性修行です。聖なる方々はすべて、感覚の抑制に取り組みました。霊性修行によって、ひとたび神は自分の内にいると信じれば、心(マインド)は不動に保たれます。ひとたび心が不動になれば、もうマントラを唱えたり、神の御名を唱えたりする必要はなくなります。

そんなある日のこと、七人のリシたちが再びその森を通りかかりました。リシたちはラトナーカランとの出会いを思い出しながら、そのあたりの大気がすばらしく清浄で、静寂なのに驚きました。そして彼が深い瞑想に没しているうちに、全身をすっかり蟻塚に覆われて埋もれているのを発見しました。そのひたむきな努力と神の恩寵によって、ついに究極の覚りの境地に達したのでした。リシたちは没我のラトナーカランを起こし、彼に人の世に戻って、自らの存在、言葉、行いによって世の中を浄めるようにと教えました。ラトナーカランは座っているうちに身体を蟻塚で覆われてしまっていたので、リシはサンスクリット語で蟻塚を意味するヴァールミカンにちなんで、彼をヴァールミーキと名づけました。

このように過去を捨て去って、まったく違う意識状態に入ることは可能なことなのです。過去は心(マインド)に属するものであり、外界における観念と行為の世界に属するものです。その外界における観念の領域から最高の領域である「真理(神)」の領域に昇っていくことは、十分な決意と無執着をもってすれば可能なのです。外界という観念の世界から無念無想の境地にたどりつき、行為の世界からしだいに行為から解放された世界に移り、超越して心(マインド)の無い状態になる、その上で慈悲の心からこの世に住みつづけ、あらゆるものに祝福をあたえて助けることを選ぶこともできるのです。

盗賊ラトナーカランの人生を変えてしまうには、妻子から一度拒絶されるだけで十分でした。でも何よりもリシからの恩寵と祝福のおかげで、彼は今までの生き方が無益で誤りであったことを悟ることができ、より高い理解レベルまでもちあげられたのです。ラトナーカランが神に自分をゆだねられるような完璧な状況は、リシたちの恩寵により生み出されたのです。彼の人生観は、短時間のうちに一変してしまいました。世間で愛と称するものがうわべだけであることを知りました。盗賊として生きることはもちろん罪深いことだけれど、それでも彼は一生懸命に昼も夜も働き、家族のために自分の命を危険にさらしてきたのでした。それなのに家族は自分のことだけで、ラトナーカランのことなどこれっぽっちも気にせず、無慈悲に彼を拒絶しました。彼はその拒絶を聞かされて突然目が覚め、そこにまったく別の世界が見え、そうなったとき今まで抱えてきた恐怖、不安、執着の重荷をまさに降ろすことができたのです。それまでは、家族はどんな場合でも自分の味方であると思っていたのに、そこへ突然家族から“ノー”と拒否を突きつけられ、そのうち背を向けて去っていくつもりだった、と聞かされたのです。その“ノー”は、新しい意識への入り口を開くための一種のショック療法であって、突然彼は自分の人生をまったく違う角度から見るようになりました。そうした自分の辛い体験とリシの教えによって、新しい見方ができるようになり、自分の心と過去を手放し、神におのれをゆだねて平安でいることができる道を見つけたのです。盗賊の忌まわしい過去は消え、新しい人間が生まれたのです。残酷でちっぽけな男は死に、慈悲深い新しい人間が生まれたのです。神へのゆだねの気持ちと神の恩寵がそろったとき、変容が訪れます。過去も未来も消え去って、ハートのなかの真我アートマの内に常住するのです。

こうして7人のリシ(聖者)によって変容に到ったラトナーカランは、ヴァールミーキという慈悲深い新しい人間となって、大叙事詩「ラーマーヤナ」を著したのです。

すべての人間には、たとえ残酷で自分勝手な人であっても、開眼する能力がそなわっているのです。この能力は誰の内にも眠っていて、あなたの内にラーマが、クリシュナが、ブッダが、あるいはキリストがいるのです。神の神聖な光は昇るべきときが来るのを、あなたの内でただ待っているだけです。
未来のラーマ、未来のクリシュナ、未来のブッダやキリストの種子がすべての人の内にあります。すべての人が神の光、すなわち神性アートマを宿しているのです。

この七人のリシによって、ラトナーカランはいったい何に目覚めたのでしょうか。人間の心臓の奥深くに宿る魂のなかに真の自己アートマが内在していて、肉体は本当の自分ではないということを知ったのです。人間は魂の中に神性を有する真の自己アートマを宿し、このアートマによって肉体に生命が与えられ、生かされているのだということを認識したのです。アートマ(内在の神)が肉体を去ったとき肉体の死が訪れますが、魂の中の神性を有する真の自己は永遠に生き続けます。

こうしてアートマの真理を覚ったヴァールミーキは、最高の人格を有するラーマという大変すぐれた王子がいたことを大聖仙ナーラダから聴き、模範的な人生を送ったラーマの所行のすべてを語るよう啓示を受けて、叙事詩「ラーマーヤナ」を書きしるしたのでした。

「ラーマーヤナ」(神の化身ラーマ王子物語)は、まさに心の中の戦いの物語です。一人の人間が心のあり方で天使にもなれ、悪魔にもなり得るのです。人間の中には四つの性質があります。それは神の性質、悪魔の性質、動物の性質、人間の性質です。神の化身ラーマと魔王ラーヴァナの両方の性質が、私たち人間の心の中に棲んでいるのです。ラーマとラーヴァナの戦いは正義と悪との闘いであり、心の中の神性と獣性との闘いの物語です。人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば、動物的な人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできるし、建設的なことに使用することもできます。人格を磨いて善い行いをすればそれだけ霊性が増します。悪い思いを野放しにして利己的な行いをすれば、それだけ霊性が悪化します。「ラーマーヤナ」は、真理の扉、すなわち人のハートにそなわっている内なる神性へと人間をいざなう物語です。ラーマーヤナから道徳的教訓を学び、すべての人は真剣に『ラーマーヤナ』の理想を実践する努力をしなければなりません。

もたらされる出来事にラーマはどう応答し、どういう行動をとったか。一方、魔王ラーヴァナの反応と行動はどうだったか。『ラーマーヤナ』を読み解いていきましょう。

タイトルとURLをコピーしました