魔王ラーヴァナは学問の知識があり、高い教育を受けた学者でもありましたが、かれはダルマ(正法)の原理に背き、人格が欠如していました。邪悪な想いを野放しにし、言葉ではもっともらしく装うが、ラーヴァナの心の中にあったのは自己中心的な野望を遂げることだけだったのです。そのためすべてを自分の思いのままに操り、コントロールする能力を追及しはじめました。そして幻術のような特殊な力を身につけようと厳しい修行を決意し、僧侶のようにひたすら苦行に努めたのです。それは大変厳しくとても辛い修行でした。賢者たちもその心を浄め、その魂を罪から解き放つために同じように修行をするのですが、ラーヴァナの修行の目的は邪まなものだったのです。ラーヴァナの行動の影にはいつも怒りや憎しみ、貪欲さがつきまとっていました。奇跡を起こす力と強さを求めて、激しい苦行を行う執念の持ち主でした。賢者らの修行は浄性の苦行でしたが、ラーヴァナの修行はまさに激性の苦行であり、長い年月に及ぶ苦行の果てに最強の魔王と化したのです。ラーヴァナは十の頭をもつ者と言われていました。その「十の頭」とは、四つのヴェーダと六つのシャーストラ(天啓経典)を象徴しています。それらの聖典をすべて熟知し、64の修行法を会得して特殊な霊力を手に入れました。完全な覚りに到達していなくても、その手前で霊力が身につくことがあるのです。神を覚ることを願う本物の求道者は、その霊力に目もくれず、真の覚りへと進んでいくのですが、ラーヴァナは特殊な霊力を獲得した時点で修行を終わらせました。神の覚りに達する以前に身についたこうした特別な力は、社会のために役立つことは決してありません。特殊な力を獲得したラーヴァナは自分の力を自負し、さらに傲慢になりました。ラーヴァナは苦行の途中で得た霊力を個人的な欲望を満たすことに用い、乱用したのです。ラーヴァナは霊的な魔力にだけ夢中になり、聖典から学んだ大切な教えをみじんも実践しませんでした。ヴェーダの説く「多様性の中の一体性の原理」、すなわち不二一元論は、あらゆるもののなかにアートマが内在していて、すべては一なる神のあらわれであると教えています。肉体においては自他の区別がありますが、内面においては何ら違いはなく、すべての人にアートマ(内在の神)が宿り、すべての人に等しく神性がそなわっています。そしてすべての人の内なるアートマ(内在の神)は、肉体意識を超えた領域で一つに結ばれ一体になっていている、とヴェーダは説いています。自他の区別を超えた聖域で、すべての人はアートマという神の愛で結ばれているのです。神が、個々に内在するとき、アートマと呼ばれます。一なる神が万物に宿っているという意識が育ち、この確信をもてるようになれば、誰かに対して害を及ぼそうとする傾向をなくしていけます。すべての人に神が宿っているという事実を理解できるようになれば、相手を尊重する気持ちが生まれ、互いに誠意を示すようになります。自分の中にある神の性質を見いだすという義務を自覚するなら、自分の中で霊的変革が起こり、今の人生を有意義なものにしようという信念が生まれます。しかし、ヴェーダの不二一元論を学んだはずのラーヴァナは、アートマの原理を理解しようとせず、二元性を超えられませんでした。その結果として、エゴが膨らみ人格がゆがんでしまったのです。よい徳性を身につけることが学問の基盤でなければ、その学問は社会に役立つことはありません。すべての人がアートマという神の愛で結ばれているという一体感が育まれ、この一体性の感覚が自分の思いと言葉と行動に反映されるようになれば、内なる神性が外側に輝きでるようになります。お金を稼いで物質的に満たされ、名声や権力を得ることが学問の目的であってはならないのです。徳性こそが、学問の値打ちを高めるものだからです。
魔王ラーヴァナはハンサムで威厳のある風貌をもち、とても才能がありました。一度に数種類もの楽器を上手に奏で、歌もうまく、立派な音楽家でした。偉大な学者で、かつ詩人で作家でもありました。しかしエゴが本当に大きく、自分は誰よりも偉大であると自負していたので、ラーヴァナからかもし出される雰囲気はどこか不気味で、脅迫的で、嫌悪感がそこはかとなく漂っていました。すばらしい才能をいろいろ持っているのに、彼の傲慢で不愉快な態度は人々をおびやかし、言いなりにさせていました。ラーヴァナの「私は、偉大だ!」という思いによって、その美的な容貌もしだいに影をひそめ、人格もまたエゴによって醜さを増していきました。一方、ヴィヤーサはまったくハンサムではありませんでしたが、その存在は神々しく、きわめて美しかったのです。彼は、謙虚さと素朴さの体現者だったからです。エゴはまったくないのです。真に偉大なのだけれど、自分は偉大なのだと主張するようなところが少しもないのです。エゴがなくなると、人は心を超越して、すべてに遍く浸透する神の意識と一つになります。ひとたび、あらゆるものに神が浸透していると観ることができるようになれば、ただ頭を下げてすべてに額ずき、すべてをありのままに受け入れることしかできなくなるのです。格闘したり、もがいたりするのはエゴのせいで、自分はこの肉体であると思っているときだけです。エゴの足かせが外れればもう格闘できなくなって、ただ受け入れることしかできなくなります。ゆだねと受容は、純粋な愛が内面に湧き上がるときに生まれてくるのです。そうやってエゴを超えて進み行くと、無になるのです。思考と衝動の束であるマインドとエゴが消え去ると、想念と宇宙的意識(アートマ)のあいだに立ちはだかる壁が壊され除かれて、自分の内面に無限の空間があらわれます。すべてを包み込むその無限の空間のなかで、万物の中に輝くすべての意識と一体になり、その意識は「神意識」と融合します。すべてに内在しているアートマが一つにつながり一体になっていることを体験して、自他の区別がなくなります。そしてすべてが一なる神のあらわれであることを認識して、自分は肉体でも心でもなく、アートマであることを覚るのです。こうして肉体と心と知性さえも、アートマを覚るための道具として与えられていることを理解するようになるのです。純粋無垢な愛には壁はありません。アートマを見えなくしているマインドとエゴの壁は、真の愛(プレーマ)によって消えます。愛をいだく者は、愛する神の意識と一つになります。ヴィヤーサは自分を完全に神にゆだねた魂だったのに対し、ラーヴァナは自分の力だけを信じ、神へのゆだねの気持ちはみじんもありませんでした。ラーヴァナには大きく膨らんだエゴがありましたが、ヴィヤーサには個人的なエゴはまったくありませんでした。彼は、純粋意識(神意識)の体現者だったのです。ヴィヤーサはのちに、ヴェーダ・ヴィヤーサと呼ばれるようになりました。ヴェーダ・ヴィヤーサは、最高の礼拝の形は人への奉仕であると宣言しました。常に助け、言葉によっても思いによっても行いによっても決して誰をも傷つけないこと、それが各自に内在する神への真の礼拝である、と言いました。神への愛は、人への愛を通して神に届くのです。
神の化身はこう語りました。
「自分のカルマの結果、グナを引き寄せ、そのエゴがマインドにそれぞれ仕切りをつくって、神の霊流を妨げている。エゴは部分部分の輪郭を形づくる壁のようなもの。だからエゴを取り除きなさい。そうすればあなたは再び空間になる。神は形ではなく空間そのものだから、何でも入れることができる。すべてがその空間に収まり、それでもその空間には、空きがたくさんある。そこは無限の空間、無尽蔵の空間である。神の霊流を妨げないようにするために、感覚の抑制に取り組み、エゴによってつくられた壁を取り除きなさい。エゴがつくった仕切りを取り除き、あなたの内面のすき間をもっともっと大きくして神が入っていけるようにすれば、時が来て、神はエゴが押し出されるように取り計らって、あなたのハート全体は神だけでいっぱいになる。マインドは、欲望という形をとった部屋がたくさんある家のようなもの。マインドで生じた否定的な感情や欲望への執着が、あらゆる苦しみの原因です。執着のないところには、恐れも不安もありません。その状態はどうすれば得られるのでしょうか? それは神に近づくことによって得られます。」
ヴェーダの教えの真髄は、「常に助け、決して傷つけないこと」です。なぜなら、すべての人の内にまったく同じ神が内在しているからです。人間の心臓の奥深くに宿る魂の中に神性をそなえた真の自己が住み、そこに内なる神アートマが鎮座して、一人ひとりが神性に目覚める瞬間を待ってくれています。この内なる神アートマによって、人間の生命は維持されているのです。もし、このアートマ(内在の神)が人間の心臓の蓮華に棲んでいなかったら、誰が生きることができるでしょうか。また誰が呼吸することができるでしょうか。神の住む真の神殿は、人間のハートの中なのです。人間の肉体からアートマ(内在の神)が去っていったとき、人間は肉体の死を迎えます。しかしこれが生の終わりではありません。肉体が滅んでも、魂の中の真我アートマは永遠に生き続けます。この内なる真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。肉体は本当の自分ではありません。肉体は、地上生活での役割のために魂がまとっている衣装です。肉体は、神性をそなえた内なる真の自己の存在に気づき、魂を成長させて、アートマの真理に至るための道具なのです。一なる神ブラフマーの霊が、個々に内在するとき、アートマと呼ばれます。すべての人にまったく同じ神アートマが内在しています。ゆえに人への奉仕は、内なる神への奉仕に等しいのです。わたしたちが神に捧げるべきものは、愛(プレーマ)だけです。神への愛は、人への愛を通して各自に内在する神アートマに届くのです。
「人間の本質とは何か?」を探求して、アートマの真理についての知識を深めていくならば、自分の人生に変容をもたらすことができるはずです。ヴェーダの説くアートマの真理と不二一元論、すなわち多様性の中の一体性の原理は大切な教えです。すべての人にアートマ(内在の神)が宿り、肉体の意識を超えた領域で、すべての人のアートマは一つに結びついて一体になっている、とヴェーダは教えています。自他の区別を超えた聖域で、すべての人はアートマという神の愛で一つに結ばれ一体になっているのです。自他の区別は肉体上のことであって、内面においては何ら違いはなく、すべての人にまったく同じアートマが内在し、すべての人に等しく神性がそなわっています。万物のなかに神が浸透しているのです。多様に見えるあらわれの中に、一体性の原理が隠されています。しかし人間はつねに自分と他者とを比較して、二元性の中で生きているのです。ヴェーダの説く不二一元論を理解し、すべての人の中に神を見るよう訓練して心を浄めていくならば、内なる神への信頼と神への愛が深まり、自分と同じ神性を宿している隣人をないがしろにできなくなります。多様性の中に一体性の原理があることを見て取れるようになり、すべての人がアートマという神の愛で結ばれていると信じるなら、「世界は一つの家族である」という一体感が芽生えます。その一体性の感覚を、自分の思いと言葉と行いに反映していけるようになれば、内なる神性が外側にあらわれ出るようになります。実際、人類はアートマという神の愛で結ばれた一つの家族なのです。魂の観点からみるならば、本当の親は神であり、すべての人は兄弟姉妹なのです。不二一元論を説くヴェーダは、こう述べています。「あらゆるものの中に内なる神アートマを見て、多様性の中に一体性の原理があることを認識できれば、別個であるという肉体意識を超えて、アートマの真理に行き着きます。そしてアートマに信頼を置くようになり、アートマは万人の中核に存在していると信じるなら、アートマはあなたの内に共鳴的な振動を生み出します。それゆえ他の人が幸せであれば、あなたも幸せになり、他の人が悲嘆の中にあれば、あなたも同じくらい悲しく感じるのです。それがプレーマ、すなわち最も気高く、最も誠実な愛なのです」
魔王ラーヴァナは過剰な欲望と憎しみを抱いたままとてつもなく激しい修行を実行し、この激性の苦行によって物質世界を制覇するほどの大きな破壊力を身につけました。この世にあるものは、すべて五大元素(地水火風空)でできています。この五大元素のある様相に完全に一点集中して専心することができて、その一点集中を保ったまま集中の対象物とその内なる本質を選り分けることができれば、あらゆるものの本質を知り、それを思うままにできるようになるのです。そして超能力が身について、それを使ってたとえば人の心を読んだり、遠くの物を見たり聞いたり、物を物質化したり、過去や未来のすべてを知ったり、動物の言葉やいろいろな言葉を解したり、羽のように軽くなったり山のように重くなったり、空間をどこへでも瞬時に移動できるようになるのです。すべての元素が、自分の思うまま忠実なしもべとなるのです。もしも何かを山に変えたければそれは山になるし、もう一つ別の世界を創造したければそれもできるのです。こういう能力は、実は覚りの最終地点に達していなくても、修行しだいで得ようと思えば得られるのです。ラーヴァナのようにとてつもない激しい苦行で超能力的な力をもったとしても、その人がエゴにとらわれていて、「私」「私のもの」といった感覚にとらわれているかぎり、その力はけっして役立つことはないのです。そんな人に、人間を神の道に導くことはできません。超能力を誤用する人は有害なだけで、社会にとって害となるのです。自然の法則に逆らって超能力を使うことによって必然的にみずからの破滅へと進むことになります。実際、超能力によって奇跡を演じれば自然の法則を乱すことになります。しかしながら完全に覚りをひらいた魂は、至高なる神の力と一体だから、自由に正しく奇跡を演じることができますが、でも絶対に必要な場合にしかそれはせず、できるかぎりそれを避けることを好むのです。超能力による奇跡にばかり心を奪われていると、神を感じる無上の歓びを内面の体験として味わうことはできません。超能力に執着する人は心の刺激を求めていて、心というレベルを超えられずにいるのです。求道者はサーダナ(霊性修行)で進歩していく途中、奇跡を起こす力を身につけることがあります。求道者の気持ちがふらついていれば、超能力の魔手にとらわれてしまうことがあるけれども、神を覚ることを心から願う本物の求道者ならば、超能力のようなことは無視して超越していかなければなりません。超能力をもって奇跡をどのくらい起こすかが、その人の神性をはかる尺度ではないのです。真の霊性は、純粋な愛や完璧な心の落着きとして表現され、愛(プレーマ)によってのみ本当の変容がもたらされるのです。
ラーヴァナは激しい苦行をしたものの、エゴにとらわれていたので、完全な覚りには至っていませんでした。しかし、かなりの力をもっていました。むしろ超能力を持ったがために、エゴに完全に埋没してしまい、人類の敵となってしまったのです。超能力をもったとしても、それが必ずしも覚りをひらいているということではないのです。本来、修行の根底に愛がなければ、どんな修行も人の役に立つことはありません。それは恐ろしいわざわいの始まりでした。
魔王ラーヴァナは手始めに、善良な弟ヴィビーシャナをランカー王国から追放しました。ランカー王国は島の海岸に近く、三つの峯の山の頂きに全体が黄金で建てられた都があり、魔王ラーヴァナはそこからすべての悪魔を支配し、傲慢な命令を出し、地上でも天上でも様々な騒動を引き起こしました。その心は邪まで、思いのままに権力を振るうことが好きでした。神々の美しい庭園を壊し、海や森の精や天上の舞姫たち、さらには人妻である天女をさらってランカーに連れ去ったりしました。その部下である悪魔たちは森をうろついて、聖者たちが神々にそなえた供物をめちゃめちゃに荒らしました。聖者たちは人類の安寧と幸福のためにヤグニャ(供犠)を執り行っているのですが、羅刹たちは情け容赦なく聖者たちの供犠の邪魔をするのでした。
魔王ラーヴァナが激しい苦行の末、強大な力をつけて横暴になると、神々は恐怖におちいりました。とうとう大勢の神々が、ラーヴァナの極悪非道から救ってほしいと嘆願して、ブラフマー神に祈りを捧げました。するとちょうどその時、至高神ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)が現れました。この神は三界の守り神で、創造主ブラフマー神と等しい力をもつ神でした。巨鳥ガルダに乗り、きらめく黄金の衣をまとい、四本の手のうち三本の手にほら貝と円盤と棍棒を持って偉大な光明を放ちながら現れました。
助けを求めてそこに集まっていた神々はヴィシュヌ神の前にひれ伏し、「ああ、あらゆる生き物の守り神様、地上と天上での不幸のもとであるラーヴァナを滅ぼすために、どうか人間の子としてお生まれください。全能の神よ、あなたはわれわれの最高の避難所であり、すべての悪を滅ぼすお方です。どうか人間界に降臨する決心を!」と必死で懇願しました。至高神ヴィシュヌは神々に言いました。「もう恐れることはない。安心せよ。全てのものの幸福のためにこの地上にダルマ(正義)を確立し、人間界に降臨してこの地に平安をもたらそう」ヴィシュヌ神のこの言葉を聴いて一同は大変歓喜し、そして感謝を捧げました。
そのとき火の神アグニがあらわれて、ヴィシュヌ神に言いました。「いまちょうど、善良で正義を知り、偉大なる聖仙と同じ威光をもつコーサラ国の王様ダシャラタが、王子が生まれることを願って、子授けの祭祀を執行するための準備をしているところです」
それを聴いたヴィシュヌ神はそのとき、ダシャラタ王の子として生まれることを決意しました。ヴィシュヌ神はダシャラタ王を父に選んだことを神々に告げると、みんなが見守るなか姿を消しました。