バラタ一行が都アヨーディヤーへと戻るのを見送った後、チットラクータ山では多くの聖者や修行者たちがラーマのもとに集いました。道を求める人々は、神の化身ラーマと過ごすときを心待ちにしていたのです。ここでは宗教宗派の区別はなく、さまざまな宗教の修行者や、どこにも属さない隠遁者たちが助け合って共に暮らしておりました。この修行者の中には、家族に対する責任を果たし終えたのち、霊性の求道のために森に来た人たちも多くいました。森に隠遁する人のことを、世間では家族と財産を捨てすべてを放棄した人と見ていますが、それは真の放棄ではありません。真の放棄とは、悲しみと喜びを同じ見方で考えることができることです。批判と称賛を同じ気持ちで味わうことができることであり、損失と獲得の両方を同じ考え方で辛抱したり楽しんだりすることができることです。真の放棄は、二元性の感情の撲滅です。
それゆえラーマは言いました。「苦しみや悲しみから忍耐することを学び、喜びから感謝を学んで、その両方から教訓を得なさい。すべての体験が内なる神アートマに近づくための機会なのです。称賛されても非難されても、その両方を同じ平常心で受け取りなさい。喜んで有頂天になったり、悲しみに打ちひしがれてへこんではなりません。騒がしい心を手放して平常心を培いなさい。これが本当の放棄です」
ここでの修行者たちは、二元性を超えるという真の放棄をめざして修行をしているのです。どの宗教も同じ目的地へと続いています。どの宗教も究極的には同一の真理を教えています。しかしながらなかには間違った解釈をして、逸脱した道にすすむ団体もありますが、本来、同じ一なる神が、様々な民族の集団によって異なる名で呼ばれているだけなのです。それゆえここでは他の宗教を批判するようなことは全くなく、宗教宗派の垣根を超えたサットサンガ(善き仲間たちとの交流)がありました。今生において神の化身と触れ合う機会が与えられ、ラーマの祝福をうけることは無上の歓びであり、彼らは大きな至福に満たされました。
カリユガ期(暗黒の時代)といわれる物質至上主義の現代では、不幸なことに、ほとんどの宗教は知識人が指導者になっています。神は完全に忘れ去られ、宗教の真の目的、真の実践は無視されています。各自のハートの中に安住しているアートマという真の師のみが、宗教の道に光を照らすことができ、人々を一体にして、宗教やその教えの本当の意味を教えることができるのです。どの宗教でも、たいてい知性で解釈する指導者たちは、人を説き伏せようとする強い気持ちをもっています。その巨大なエゴと決意に、どんな宗教であれ、意志の弱い信奉者はたやすく圧倒されてしまいます。霊性や宗教には、何のあやまちもありません。問題は、人間の心の中にあるのです。
二元性を超えるためには、欲望のコントロールは欠かせません。物欲第一主義は、いわば地球の癌です。人々の物欲第一主義が自然を破壊し、海や河や空を汚染し、資源の乱用がこの地球に異常気象を引き起こしているのです。利己主義、貪欲、暴力、支配欲、これらはみな物欲第一主義の副産物です。人間は肉体だけの存在ではなく、霊魂を有する霊的存在です。欲の皮が突っ張れば、霊性はしぼみます。スピリチュアリズムの根本理念は、人類を物質的に豊かにすることではなく、霊的に豊かにすることなのです。修行者たちはこうした事実を認めるに至ったので、物質的な豊かさよりも霊的に豊かになることを求めて、この森での暮らしを選びました。騒がしいマインド(心)を五感から引き離し、心を静めてアートマの覚りに至る修行に打ち込むことは、自分だけではなく全人類に利益をもたらしてくれるという自覚をもって、修行に励んでいるのです。しかしこうした霊性修行は森に行かなくても、世俗社会での義務を果たしながらでも為すことができるということを、ラーマは都アヨーディヤーの人々に話して聞かせていました。実際ラーマはアヨーディヤーにいるとき、世俗社会においても、社会的義務と霊的義務の両立ができることを自ら実践して、人々に示しました。
真面目な修行者たちが暮らすこのチットラクータ山の静かなたたずまいに、悪の手がしのびよろうとしていました。神聖な儀式が行われているのを、羅刹たちが嗅ぎつけたからです。極悪非道な行為をして求道者たちを困らせようとしました。不幸なことに、この羅刹たちは物質的欲望を追い求める中で道に迷い、己の基盤となる神性を忘れてしまっているのです。人生の本当の目的は、神性の実現です。羅刹たちは現世での贅沢な暮らしや成功を求めますが、永遠の幸福を与えてくれる内なる神性を探そうとはしないのです。それゆえ穀物を育たなくさせる害虫のようにこっそりと人間の中に入り込んできて、あっという間に人間の中にある妬みや憎しみや怒りなどの利己的な悪感情を助長させ、人間の中にある浄性を破壊して、人間を神性から引きずり落そうとたくらむのです。人間の中の浄性を破壊してしまうものは、飽くことを知らない貪欲さという魔性です。そしてこの貪欲さが人間同士を敵対させているのです。欲望には限度がなければなりません。同じように執着に対しても抑制がなければなりません。欲望が抑えられず、五感のまま生きている限りアートマを認識することはできないのです。感覚のままに欲望をつのらせ、世俗の楽しみに心を奪われて、それらを追い求め続けるうちに道徳と善良な感覚が失われていってしまうのです。自己中心的な思考と限度のない欲望が、心の荒廃をもたらします。世界の繁栄と幸福が実現するのは、心に霊的変革が起こるときだけです。心が改められず清められないならば、この世の改善計画はすべて無駄に終わります。愛という美しい花をハートに咲かせる努力をして人格を向上させ、自分にある神の性質を見いだすという義務を自覚するなら、人の内なる神は顕現するでしょう。
ダルマに反する勢力から身を守るため、ラーマ一行と求道者らは新たな修行場を求めてダンダカの森に移り住むことにしました。ゴーダーヴァリー河とナルマダー河の間に広がっている広大なダンダカの森を南へと進み、高尚な聖者たちの庵を訪ねてまわりました。彼らもまた、ラーマの来訪を待ち望んでいたのです。神の化身ラーマの祝福をうけることは、彼らにとって至上の喜びでした。聖者らはいずれ世俗に戻って、ヴァシシュタ仙のように社会に貢献することをラーマに誓いました。
ラーマ一行が立ち去るときが近づくと、一人の聖者が言いました。「ここからさらに奥へと進むと、さまざまな名木が生い茂り、清らかな水を満々とたたえる池が見えてまいります。その先の菩提樹に囲まれた最高に美しい森の一画に、偉大なる聖者アガスティヤの庵があります。是非とも訪れてください」その言葉に従い、美しい森の小道を進んで行くと、ひときわ威光を放つ聖者アガスティヤがラーマ一行の到着を待っていました。全世界の平安を祈ってきた大聖者アガスティヤは、そのすぐれた威徳によって悪魔たちは全く近づけず、そこは平穏な雰囲気に包まれたまことに美しい聖地でした。聖者アガスティヤはラーマ一行を丁重にもてなし、いつまでもこの地に滞在してくれることを望みましたが、ラーマがここにいては、神の化身としてのラーマの目的が果たされなくなってしまうことを認識していたので、ゴーダーヴァリー河のほとりにあるパンチャヴァティーに住まわれることをすすめました。
大聖者アガスティヤは姿が見えなくなるまでラーマ一行を見送り、弟子たちにこう言いました。
「ラーマが森に追放されたのは、悪事をはたらいたからではない。父の名誉を守るために、自らすすんで森に移り住んだのだ。ラーマは真に徳高く自分に厳しいが、他者には柔和で理由もなく他のものを傷つけたりはしない。それどころか助けを求める生き物はすべて保護してやり、愛情を注ぐのだ。しかし、度の過ぎる非道な振る舞いに対しては、正しき者たちを守るためにダルマを盾にあえて怒りを表現し、絶対なる力を見せるのである。この偉大な英雄ラーマはダルマ(正義)を再建し、この地上に平安をもたらすために肉体をもって降臨された神の化身なのだ」
聖者アガスティヤはしばらくの間その場に立ち尽くし、神の化身ラーマの栄光を祈るのでした。