ラーマ一行は大聖者アガスティヤの意向に従い、パンチャヴァティーの森をめざしました。木々がうっそうと生い茂り荒れ果てた森の中を、一行はひたすらマントラを唱えながら奥へ奥へと進んで行きました。するとその向こうに、聖者アガスティヤが教えてくれたとおり、広大な平地が見えてきました。そこは果実や木の実がたわわになる木々に囲まれ、その近くをゴーダーヴァリー河が流れていました。ラーマはその清流のほとりに庵を造ることにしました。シーターとラクシュマナはラーマの御名を唱えながら、庵づくりに励みました。
ある日のこと、ラーマはゴーダーヴァリー河の清流で沐浴をして庵に戻る道中、女悪鬼シュールパナカーとすれ違いました。シュールパナカーはラーマを一目見るなり、その秀麗なラーマの容姿にすっかり心を奪われてしまいました。彼女は善人を装い、絶世の美女に変身してラーマに近づき、自分を妻にしてほしいと懇願しました。ラーマは自分にはシーターという妻がいることを告げ、その場を去ろうとしたのですが、それでもシュールパナカーは言葉巧みに何度も言い寄ってきたのです。シュールパナカーはラーマを自分に振り向かせようと、あらゆる手段を使いました。しかしラーマは、決して道を踏み外すようなことはありませんでした。
女悪鬼シュールパナカーはラーマに拒絶されて腹を立て、それはしだいに憎しみへと変わっていきました。何の罪もないシーターへの嫉妬も生まれました。外見は平静さを装っていましたが、内面には怒りが渦巻き、巧妙な悪だくみを図るようになっていったのです。その女悪鬼シュールパナカーは大魔王ラーヴァナの妹でした。彼女の仲間たちもまた、お金や欲のためならどんな卑劣なことでもする邪悪な性質をもっていました。いつも悪い仲間とつるんで五感のままに生きてきた彼女は、完全に道理を見失っていました。霊性の学びの機会をもち、善き仲間との交流(サットサンガ)があれば、きっと気づきが与えられていたはずです。しかし不幸なことに、彼女にはそのような環境も霊性教育の場もなかったのです。
「教育」という言葉の本当の意味は、自分の中にあるものを引き出すということです。教育は、外側の情報を集めるカリキュラムとスキル習得に関連した学び、および人間的価値を内側から開花させるための内面の変容に関する学び、この両面を持ち合わせていなければなりません。内面を探求して内なる神性を引き出すための教育が重要なのです。人間に生来そなわっている神性は、人間性を神性へと変容させていくために、神から授かった大切な宝物です。情報を提供する科目のカリキュラムやスキルの習得と並行して、神性を秘めた人間としての精神的規律も身につけていく必要があります。文学修士や理学修士といった生計を立てることに役立つ資格と並行して、神性をそなえた人間としての徳性を身につけた高次の修了証書も取得できるようにならなければなりません。現代の教育システムでは、単に知識人を創ることが重視されています。いわゆる物理的な面だけが重視されているのです。学びと生活は、精神と調和したものでなければなりません。社会的生活と精神とのバランスは重要です。内なる神性に信頼を置いて、各自に内在する神性が外側に輝き出るようにならなければなりません。内なる神性を人生の土台として生きながら、あらゆる場面でその神性が外側にあらわれ出るようになるならば、つまり自分の中に染みついた利己主義が、愛と思いやりに置き換えられるとき、自分だけではなく周りの環境も変わり始めるのです。
人間は肉体だけの存在ではありません。すべての人の魂の中に神性をそなえた真の自己アートマが宿っています。その内なる真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。その神性は、人間性を神性へと変容させるために神から授かった宝物です。すべてのものの中に、内なる神アートマが浸透しています。外見上は別個に見えるあらゆるものの背後に、一体性の原理が内在しているのです。いかなる差別も慎み、すべての人の中に神を見て、すべてがアートマという神の愛の絆で結ばれているという一体性の感覚を胸に刻むなら、「世界は一つの家族である」という言葉は単なるうわべ上の標語ではなく、真実味のある言葉として受け入れられ、一体性の内に生きることが可能になります。そして自分の思考や言動や行動に、一体性の感覚を反映させていけるようになります。これが、神性を内側から引き出して、外側にあらわれでるようにするということの意味なのです。すべての人のなかに神を見る訓練をして、一体性の内に生き、人類は一つの大きな家族であり、皆が兄弟姉妹であるという気持ちが一人ひとりの中に芽生えるならば、この地上に平和をもたらすことができます。実際、人類はアートマという神の愛で結ばれた一つの家族なのです。魂の観点からみるならば、本当の親は神であり、すべての人は兄弟姉妹なのです。
人間に自由意志が与えられています。本来、人間の自由意志は感覚の抑制に向けられるべきなのです。心の訓練のために、自由意志は活かされるべきなのです。霊性について学ぶ機会がなかったシュールパナカーは、すべての人の内面に神性という宝が隠されていることなど、知る由もありません。感覚を正しく抑制する術を知らないシュールパナカーは、激しい怒りと妬みの感情をつのらせていったのでした。
ラーマには妻がおり拒否されるのは当然なのですが、シュールパナカーはそれを受け入れられず、なおも執着していました。自分の思い通りにならないとわかった瞬間、情愛が憎しみに変わり妬みになって、激しい怒りが生じました。このように欲望に執着し、欲望が満たされないと否定的な感情が湧き上がります。感覚を抑制せず野放しにしていたシュールパナカーは、さらなる悪だくみを考えエスカレートさせていきました。このように感覚を野放しにしていると、悪いカルマを積み増すことになります。罪の上乗せをしてしまうのです。シュールパナカーは、完全にマインドに操られマインドの言いなりになっていました。グナの住みかであるマインドで湧き上がった思いを、自分自身の思いとして受け入れてしまったのです。いわゆるグナの奴隷になっている状態です。感覚を野放しにしていると、マインドで湧き上がった思いに自分自身を同化させてしまいます。訓練されていない心(マインド)に生まれるエゴはあまりに強力なので、人は内なる神性を見失ってしまうのです。グナの住みかであるマインドで生じたエゴは、とても油断のならないずる賢いものであることを心に留めておくことは大変重要なことです。霊的に進んだ求道者であっても、エゴの罠にはまり得ることがあるのです。マインドのなかで生じたグナの束縛、すなわちエゴの支配は脅威的なので、常に神を思い起こす必要があります。神を思い起こすとは、感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるということです。常に神を思い起こし、心(マインド)に入ってきた思いが正しいかどうか、内在の神の御心にかなうことかどうか、これらの質問を内なる神に伝え、自分の思いを吟味する訓練を続けていかなければなりません。そうしないと、心の落着きを取り戻すことはできません。マインドの言いなりになるのではなく、神を思い起こして、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すならば、マインドは神の方を向くようになります。こうした努力によって、内なる神がブッディ(識別する知性)を通してはたらくのを実感するようになるでしょう。感官に向いているマインドを神の方へと向けさせ、つねに神を思い起こすようになるならば、人間の理智鞘にあるブッディ(識別する英知)をとおして内なる神性意識(良心)がはたらき、識別して行動する力(ブッディ)が活動をはじめるようになります。ハート(良心)の扉が開いて、内なる神の恩寵が流れ込み、善へと導かれるのです。こうして感官に向いているマインドを内なる神の方に向けて心を浄めていくならば、グナの束縛、つまりエゴの支配から完全に解放されて真の自由を獲得します。こうしてあらゆる執着から解放されて自由になることが、解脱なのです。
現象世界に存在する三つのグナの奴隷になっているうちは、真の自由はありません。自分とは肉体であるという意識をもってなされた行為は、すべてグナの束縛を受けます。なぜならその場合、人は感覚のおもちゃになってしまうからです。人はグナによって操られ、グナによって感覚のおもちゃにされてしまうのです。神はあらゆるところに存在し、かつあらゆるものの中に神は内在しているという深い信仰をもって、あなたが内なる神性アートマに信頼を置くなら、あなたは決してグナの束縛を受けることはありません。あらゆるものの内にアートマが内在していると見るなら、あなたの行為はすべて神への礼拝へと変容し、高められ、束縛を受ける要素は消え去ります。アートマの神秘に気づいたとき、感覚や現象世界の奴隷でいるという重荷は軽減されます。それゆえ感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるために、常に神を思い起こし、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すことが重要なのです。内なる神アートマに心を向け、神への信愛を深めていくならば、神は必ず救いの手を差し伸べてくれます。神に向けられた思いが、他のいかなる欲望よりも強いのが最善の状態です。神への愛をもつ者を、神は見捨てておくことはできないのです。
人間は永遠不滅の魂として輪廻転生を繰り返し、過去においてどのような生き方をしたかが今の人生に影響し、今の人生をどのように生きるかが次の人生に影響します。誰もがこの地上に生まれるとき、前世から持ち越してきた性格や才能とともに、過去生で自分が行った善行と悪行を一緒に携えて生まれてくるのです。自分が蒔いた種は、今生で刈り取るといった因果律(カルマの法則・因果応報・原因と結果の法則)の中で人間は生かされています。自分の思いと言葉と行いの一つひとつが、それ相応の結果をもたらすのです。
人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。獣性が優勢になれば、妬みや憎しみの感情を抱いたまま利己的な行動に走り、戦争や暴動が起きて衝突や殺人が横行します。神性が発揮されるようになると、お互いに助け合い分かち合うようになり、平和と調和と豊かさが得られます。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。出来心や気まぐれや性癖のおもむくままに行動し、肉体だけを満足させる生き方をしていては、動物的傾向から抜け出すことはできません。神の分霊であるすべての人の魂は、根っこのところでつながっています。集合的無意識という深いレベルでつながっているのです。ですからあなたの思ったことや考えたこと、感じたことは波動となって相手に何かしらの影響を与えます。怒りは両刃の剣のようなもので、相手だけではなく、実は自分自身にはるかに多くの害を与えているのです。怒りや憎しみや妬みなどのネガティブな波動は、神の恵みが私たちに届く障害になるのです。ねじけた想いのままでいると、まわりの環境を破壊してゆくことになるでしょう。
大霊である神はすべてに浸透しています。人間一人ひとりの心臓の洞窟の中に、神はアートマ(内在の神)となって住んでいるのです。神は永遠の照覧者です。神に知られずにできることは何一つとしてありません。神は行為そのものよりも、行為の背後にある感情をみます。行いの動機が純粋で誠実かどうかだけを調べます。それゆえ思いと言葉と行いは完全に一致し、清らかでなければなりません。思いと言葉と行いの三つが相反すれば、人はカルマを経験し、これによって生じる運命を背負うことになります。思いと言葉と行いが清らかで一致していれば、悪いカルマを積まずにすむのです。この世で築いた財産や名声、地位、権力は肉体の死とともに終わりを告げますが、この世で培った人格、徳性、愛(プレーマ)は、魂の永遠の財産となって来世へとつながるのです。