ラーマとラクシュマナは歩き続け、ついにスグリーヴァが住むリシャムーカ山の麓にたどり着きました。スグリーヴァは二人が近づいてくるのを山の上から見て、兄ヴァーリが差し向けた敵ではないかと疑いました。スグリーヴァは兄ヴァーリによって、王国から追放されていたのです。
以前、マーヤビという羅刹が戦いを挑んで、猿族の王国キシュキンダーの門前にやって来ました。兄のヴァーリとスグリーヴァは、羅刹マーヤビと戦うため外に出ました。すると羅刹マーヤビは二人を見るなり、洞穴の中に逃げ込んでしまいました。ヴァーリは弟のスグリーヴァに洞穴の入り口で待っているよう言い残し、洞穴の奥へと突進して行きました。スグリーヴァが入り口で待っていると、洞穴の中で戦う激しい音と兄ヴァーリの慌てふためいた叫び声がしました。多量の血が洞穴から流れ出てきたのを見たスグリーヴァは、兄ヴァーリが負けて殺されたのだと思いました。スグリーヴァはとっさに羅刹マーヤビが洞穴から出られないよう、入り口を大きな岩でふさぎました。スグリーヴァは兄ヴァーリが死んだのだと思い、深い悲しみに沈んでいました。しかし、国には王がいなければならないと大臣たちから説得され、スグリーヴァは王位に就いたのです。
しばらくして、突然兄のヴァーリが現われました。羅刹マーヤビを滅ぼし、大岩を蹴りのけて王国に戻ってきたのです。ヴァーリは弟のスグリーヴァが自分を裏切って洞穴をふさぎ、自分から王国を奪ったと思い込みました。スグリーヴァは即座に王位を兄ヴァーリに返し、兄の許しを請いました。しかし兄ヴァーリは決して弟を許そうとはせず、激怒して弟スグリーヴァを王国から追放しました。そして弟スグリーヴァの妻を奪い取ったのです。それ以来、スグリーヴァはリシャムーカ山で暮らしていました。
ラーマとラクシュマナの二人が近づいて来るのを見たスグリーヴァは、二人が何者で、なぜここまで来たのかを調べるため、最も信頼する友であり、猿族の王国キシュキンダーの大臣であったハヌマーンを遣わしました。ハヌマーンはアンジャナー女神の息子で、父親は風神ヴァーユです。そんな両親に育てられたハヌマーンはヴェーダを修め、聖典のことを知り尽くしていました。礼と作法をわきまえ、勇敢で優れた知恵をもち、信頼も厚く頼れる存在でした。ハヌマーンは使者としてラーマとラクシュマナのもとに赴き、丁寧な口調でこう尋ねました。「あなたがたは、なぜこの遠い人里離れた森までおいでになられたのですか」ラーマ兄弟はこれまでの経緯をすべてハヌマーンに話しました。三人はすぐに打ち解け、互いに古くから知っていた仲間のような懐かしさを感じました。それもそのはず、ハヌマーンの誕生はラーマ兄弟の誕生と深い関わりがありました。それは、ダシャラタ王の第二王妃スミトラーが子授けの祭祀で頂戴した神聖なパーヤサム(米の聖菓子)の器を、一羽の鷲が空から舞い降りて持ち去り山の上に置いたとき、そこで瞑想をしていたアンジャナー女神(風神ヴァーユの妻)がそのパーヤサムを食べて身ごもり、ハヌマーンを産んだのでした。ダシャラタ王の三人の妃たちも同じパーヤサムを食べて、ラーマ、バラタ、ラクシュマナ、シャトルグナの四人の息子を授かったのです。
ハヌマーンはラーマとラクシュマナを自分の両肩に乗せて、山の頂きに住むスグリーヴァのもとへ案内しました。ハヌマーンは二人の王子に起こった出来事のすべてを、スグリーヴァに伝えました。互いのことを理解したラーマとスグリーヴァは、リシャムーカ山の上で親交のしるしを交わしました。ラーマはスグリーヴァにシーターを捜す手助けをしてもらう代わりに、スグリーヴァの妻を取り返すという同盟を結び、互いに固い約束を誓いました。そして数日後、一行はスグリーヴァの兄が統治するキシュキンダー国に向けて出発しました。
ラーマはスグリーヴァの悲しい体験を知り、彼の苦しい境遇を自分のものとして感じました。そしてスグリーヴァの力になりたいと思いました。スグリーヴァもまた、ラーマが14年間森で暮らすことを強いられ、シーターを捜しているいきさつを知って、ラーマの悲しみを自分のものとして感じました。そしてラーマのために最善を尽くしたいと思いました。二人の心は慈悲で結ばれ、真の友情が生まれたのです。苦悩している人を見て、ただ言葉で同情を表すだけではいられなくなったのです。真の慈悲はハート(良心)から湧き上がり、相手の苦悩を軽減するためにどんなことが自分にできるかを考えさせます。自分の苦しみを取り除こうとするのと同じように、他の人の苦しみを癒やす方法を探さなくてはなりません。人を助けるために行うことの一切は、ハート(良心)から湧き上がったものであり、助けを受ける相手のハートに響くものでなければなりません。
スグリーヴァが兄ヴァーリに許しを請うにあたり、ラーマは言いました。「自分に襲いかかってくるかもしれないどんな災難にも、へこたれないと決意するほどに勇敢でありなさい。あなたのハートに神が鎮座しているとき、誰があなたを破滅へと導くことなどできるでしょう?神への揺るぎない信頼をもって、兄に許しを請いなさい」こう言ってスグリーヴァに勇気を与えました。
どんなことについても不安に思うことを止めなければなりません。疑いや不安、恐れや心配などの否定的な感情は、グナの養分です。神は、人が神に全てを完全に託したとき、その人を導きます。神が人を、その人の予測した道と違う道へ導いたときは、神がその人を神の腕に抱えているのです。最も大切なことは、自分は至高なる神の守護の光の下で完全に安全なのだという意識です。この意識は、もし絶えず神を憶念することを実践していれば、決してあなたから離れることはありません。すべての行いを神に捧げ、行為の成果に執着せず、行いの結果を神にゆだねるならば、カルマによる束縛をうけることはありません。このようにすれば、エゴは養分を与えられることも育てられることもないので、まもなく消滅します。全託とは、神の御名においてすべての行為を行うということだけではありません。神への全託とは、全宇宙が神の身体であると認識された状態です。
猿族の王国に到着すると、スグリーヴァは兄ヴァーリに許しを請い、自分の妻を取り戻すために兄との交渉を試みました。それをラーマとラクシュマナは、少し離れたところから見守っていました。兄ヴァーリには弟を許すつもりも、弟の妻を返すつもりも、もうとうありませんでした。弟の要求に応じるつもりのない兄ヴァーリは弟をにらみつけ、殺意をあらわにしました。兄ヴァーリは、われらは兄弟でありながら仲良く暮らせる運命ではなかったようだ、と言うやいなや剣を抜いて弟スグリーヴァに向かっていきました。そして強靭な力で弟をねじ伏せました。ラーマは「許しを請う者を傷つけ、人の妻を奪う者は必ず破滅に向かう!」と言って、抜いた剣を捨てるよう説得しました。しかしマーヤーの網に捉えられて、弟の妻への思いを断ち切れない兄ヴァーリは、容赦なく弟スグリーヴァに剣を向け殺そうとしたのです。そのとき弟スグリーヴァは、自分の足で兄ヴァーリの剣を吹き飛ばしました。するとその剣は岩に当たって回転しながら、剣を振り上げた者のもとへ戻っていったのです。兄ヴァーリは自らが振るい上げた剣で、自分の命を失うことになりました。このとき神威の光輝がうねりとなって、弟スグリーヴァに力を与えたのでした。凶悪なエゴは滅ぼされる運命にあったのです。兄ヴァーリは、自分が犯した悪事の報いから逃れることはできませんでした。悪徳が自分を罰し、功徳が自分を守るのです。まだ息のあった兄ヴァーリにラーマは言いました。「ヴァーリよ、汝にダルマを説く資格はない。汝は弟のスグリーヴァを自分の息子のように、そして弟の妻を娘のように扱うのがダルマであるにも関わらず、弟の妻を奪った。それは暴力に等しいのだ」兄ヴァーリはラーマの言葉が身にしみました。そして自分の傍に弟を呼び、「スグリーヴァよ、すまなかった。許してくれ。今後はお前にこのキシュキンダー王国を継いでもらいたい。どうかわしの妻と息子のアンガタを頼む」そう言って息を引き取りました。こうして最後に許しをこうた兄ヴァーリの魂は、エゴから解放されて昇天しました。
弟スグリーヴァがキシュキンダー国を追放されてからというもの、ハヌマーンもヴァーリーのもとを離れていたので、兄ヴァーリの統治体制下で、国民のモラルは衰退していきました。真面目に働くことを嫌い、けんかや暴力ざたを引き起こし、規律を守れない者たちが増えました。好き嫌いの感情にまかせて行動するため、売り言葉に買い言葉、歯には歯をといったしっぺ返しが習慣のようになり、こうした内輪もめは家庭、社会、そして国全体に不和をもたらしました。感覚を抑制することなく、性癖のおもむくままに行動し、堕落した生活を好むようになっていったのです。限度のない欲望の追求と世俗の楽しみに心を奪われ、道徳と善良さが失われていました。復讐を叫ぶもの、目には目を、歯には歯をの考えをもつ者は、将来の戦争のタネを蒔いていることになります。
肉体だけを見て、自分と他者とは別の存在だと見なしているから、自己中心的になり、他者のことを無視したり、ないがしろにすることができるのです。本当の自分(真我アートマ)を忘れて、怒りや憎しみや妬みや批判など、エゴと同一化しているから、他人という感覚が強くなるのです。人間は霊的存在で、すべての人にまったく同じ神性アートマが内在しています。各自の内なる真我アートマは、人間の表層意識を超えた領域ですべて一つに結ばれ一体になっています。その境地の中では、他者という感覚はなくなります。自他の区別がなくなるのです。他人も自分なのです。自己中心性の殻を突き破って一体性の原理の中に溶け込んで大きくなり、真の自己アートマの内に、つまり神の意識のなかに、中心を置かなければならない。内なる真の自己は、アートマと一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。人間はこの内なる真の自己に気づき、あらゆるものの中にアートマが内在していることを知覚して、多様性の中に一体性の原理が隠されていることを認識しなければなりません。
大切なことは、自分は神性をそなえた存在であるという気づきです。そしてすべての人に、内なる神アートマが内在していて、すべての人に等しく神性がそなわっているという事実を知ることです。一なる神が個々に内在するとき、アートマと呼ばれます。すべての生命は、内なる神アートマによって維持されているのです。このアートマが肉体から去ったとき、肉体の死を迎えますが、魂の中の神性をそなえた真の自己アートマは、永遠に生き続けます。この内なる真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。このようにあらゆるものの中に、アートマが浸透しています。あらゆるものの中に神を見る訓練をして、多様性の中に一体性の原理があることを認識できれば、別個であるという肉体意識を超えて、「人類はアートマという神の愛で結ばれた一つの家族である」との理解に到ります。この一体性の感覚を、自分の思いと言葉と行いに反映させていけるようになれば、内なる神性が外側に輝きでるようになるのです。
神を思い起こすとは、感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるということです。感官に向いているマインドを神の方に向けることは、グナの束縛から解放されてエゴの支配から自由になるための助けになります。感覚の奴隷になっているマインドの言いなりになるのではなく、神を思い起こして、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すならば、マインドは神の方を向くようになります。ただし結果に執着せず、結果については神にゆだねて平安でいることが大切です。いつまでも結果に執着していたり、不安や恐怖感を抱くと、それはグナの養分となって、マインドは感官の方に向きを変えてしまいます。内なる神アートマに信頼を置いて、常に神を思い起こし、自分の義務を誠実に遂行して、すべての行いを神に捧げるならば、マインドは必ず神の方に向かいます。こうして感官に向いているマインドを、内なる神の方に向ける訓練をして心を浄めていくならば、グナの束縛、つまりエゴの支配から完全に解放され、あらゆる執着から解き放されて真の自由を得るでしょう。これが「真理はあなたがたを自由にする」という言葉の意味なのです。
ラーマは言いました。
「人には、過去生での体験によって蓄積された精神的傾向が潜在しています。それゆえ、人それぞれが自分の角度から見て判断し、前世からの心の傾向にしたがって話したり議論したり、中傷したり嘲笑したりします。他の人をいじめたり、からかったりしないようにしなさい。非難ではなく、むしろ同情してあげなければなりません。彼らは皆この世の欲望をひたすら追いかけているので、真の知識をまだ知らないだけなのです。過去生から持ち越してきた人をあざ笑い批判する性向を、今生においてこそ取り除き、これ以上悪い性質を増やしつづけて罪のうわのせをしてはなりません。心を浄めるために感覚を抑制しなさい。感覚を野放しにしていると、感覚器官を通してほとばしる感覚の悦びをマインドにあたえることになります。すると心の落着きが失われ、識別力がはたらかなくなるのです。心が騒がしくなり、さまざまなことに執着し、物質的な豊かさだけを追い求めるようになります。真理を知るためには、欲望と感覚的執着から離れなければなりません。あなたがたは自分のことを肉体だと思っているけれど、しかし実は、あなたがたはその肉体の魂のなかに真の自己アートマを宿す霊的存在なのです。物質的な豊かさだけではなく、霊的な豊かさも求めるようになって、物質社会での義務と霊的存在としての義務を両立させなさい。神を思い起こすことは、揺れる心の振り子を静める助けになります。外面にとらわれず、すべての人のなかに神性アートマの光りを見るようにしなさい。あなたがたが常に神を思い起こし、最愛の神に溶け込むと、マインドのはたらきが止み、エゴは消えるのです。あなたがたが最初に取り組むべき修行は、感覚の抑制です。感覚をコントロールすることは、どんな霊性修行にも欠くことのできないものです。諸感覚がコントロールされているとき、マインドは存在することはできません。神を憶念し高潔な思いをいだいているとき、グナの住みつくマインドを滅ぼすことができます。欲望を抑えることは感覚のコントロールにプラスにはたらき、さらに神性へと導きます。マインドを支配し、グナに操られないよう主導権をとりなさい。決して、体と心(マインド)と感覚の奴隷になるべきではありません。あなたの内にある悪を捨ててしまいなさい。そうすればいたるところに善を見ます。ハートは神を安置する祭壇です。あなたのハートを、悪い思いや悪い感情で汚してはなりません。真の霊性修行とは、すべての仕事を神の仕事と見なすことです。どんな困難に遭っても、意気消沈したり落胆したりすべきではありません。常にリラックスし、穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。そうすることで霊力がはたらきやすくなります。困難に直面した時、内なる神アートマに信頼を置いて、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば、道は必ず開けます。真の自己アートマを見い出すのは、日向の生活の中ではなく、困難に挑戦している過程の中なのです。価値あるものは、困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。見捨てるのは、あなた方のほうです。忍耐こそ、耐えある愛こそが、それに必要とされる潤滑油です。我慢、忍耐、平安、愛を育みなさい。大胆に勇敢に、そして熱心に自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって、神の御名において為しなさい」
ヴェーダーンタ(ウパニシャッド哲学)は、こう教えます。
人間に内在しているアートマは、一なる神と同一のものです。常にアートマを隠しているのは心(マインド)であり、エゴ意識です。世の中は、自己中心的な利得にしか興味を示さない人が増えていますが、肉体あるうちに、「人間の本質とは何か」を探求することは、人間として生まれてきた者の義務といえるほど大切なことなのです。神はアートマとなって全ての人の中にいます。他の人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じであり、神を傷つけることに等しいということを、アートマの知識は覚らせてくれるのです。誰もが、いつかは肉体の死を迎えます。しかし心臓の奥深くにある魂の中の真の自己アートマだけは、永遠に生き続けます。人間一人ひとりのアートマは神の生命となっていて、やがて人間は、人間を生み出した源泉に愛を携えて帰融しなければならないという神の摂理の中に生かされているのです。アートマを授かっているということは、人間は常に神と共にあるということの証しであり、このアートマへの信頼こそが、わたしたちの自信になります。喜びと悲しみ、損と得、好きと嫌い、名誉と恥、非難と賞賛など相対する二つのことをいつも静かな変わらぬ心で受けとめ、心の平安を保つことは大切なことなのです。誰もが、幾多の過去生において自分が行った行為の結果を経験しなければなりません。ある種の悲しい出来事、あるいは不幸な出来事に見舞われたとき、そこには尊い学びがあり、それは内なる神アートマにより一層近づくための良い機会なのです。耐えある愛には潤滑油のはたらきがあります。因果律(カルマ)による苦楽の体験のなかで、神性をそなえた内なる真の自己の存在に気づき、苦しみから忍耐することを、喜びから感謝することを学んで人生の糧とし、自分の人生を聖化しなさい。
弟スグリーヴァは兄に代わって王位に就きました。そして「ダルマ(正義)を再建し、厳罰主義ではなく、徳と礼節によって秩序を整え、国民が愛国心をもてるような国にする」と宣言したのです。皆が人格を磨くことの大切さを知ってそれを実践するようになるならば、罰則規定がなくても社会はしだいに善くなっていく、というのがラーマの教えだったからです。ダルマに基づいた規則は制定しましたが、特に厳罰規定はありませんでした。厳罰主義の法令で規制しようとしても、一人ひとりが徳の大切さを知って人格を磨くようにならない限り、うわべだけ善良であるように見せかけ、法の抜け穴ばかりを探る人間が増えるだけです。一人ひとりが霊性の真理を知って人格を磨き、ダルマによって秩序を整えるようにしていけば社会は正しい方向に改まるのだ、というのがラーマの教えでした。
一なる神が万物に宿っているという意識が育ち、この確信をもてるようになれば、誰かに対して害を及ぼそうとする傾向をなくしていけます。すべての人に神が宿っているという事実を理解できるようになれば、相手を尊重する気持ちが生まれ、互いに誠意を示すようになります。自分の中にある神の性質を見いだすという義務を自覚するなら、自分の中で霊的変革が起こり、今の人生を有意義なものにしようという信念が生まれます。物質的な豊かさだけを求めてきた生き方から、霊的な豊かさを取り入れた生き方に改まれば、物質社会での義務と霊的存在としての義務の両立は可能です。
ラーマは霊的価値を復興し、道徳的退廃から世界を救うために、肉体をまとってこの世に誕生したのです。ラーマの教えは、まるで砂漠に水が浸透するように、人々の乾いた心に吸収されていきました。