2.ラーマの誕生

聖なるガンジス河に流れ込むサラユー川の岸に、名高いイクシュヴァーク王家が代々統治してきたコーサラという平和な大国がありました。このコーサラ国の首都アヨーディヤーに築かれた都城で、当時の王様ダシャラタは息子の生まれることを願って、盛大な供犠祭式の準備をすすめていました。ダシャラタ王はヴェーダに精通し、正義と真理を尊び、国民が互いに分かち合いながらダルマ(正義)に基づいた生き方ができるよう導き、公平な目で国民の福祉に注意を払っていました。またどんな人にも親切で、王国の民からも地方の人々からも敬愛されていました。

この都城には司祭僧としてヴァシシュタ仙とヴァーマデーヴァ仙の二人がいました。二人の司祭僧はヴェーダに精通し、あらゆる智慧をそなえ、感官を制御して神への礼拝とヴェーダに基づいた儀式や祭祀を司り、常に自分の職務をダルマに従い忠実に行っていました。なかでも、最高の徳を持ち神の威光に輝くヴァシシュタは、世俗を離れて感覚を制御する厳しい修行をして最高の覚りに至った大聖者です。彼は再び世俗へ戻って王家の教育にあたり、その王国の祭司官として平和と秩序の維持のためにはたらいていました。この卓越した大聖者ヴァシシュタ仙とヴァーマデーヴァ仙のおかげで、コーサラ国の人々は霊性におけるアートマの原理を学び、社会生活において必要な義務を果たしながら、霊性の教えを日々の生活の中で実践するよう努めました。なぜなら、世俗社会で培った学識は霊性、すなわち徳性と結びついていなければ、社会に役立つことはないからです。徳性が身についていない知識など、どこに値打ちがあるというのでしょうか。それらは自分の生計と名声を得るためだけの知識でしかなく、社会に役立つことはないでしょう。徳性こそが学問の値打ちを高める、というのが真実なる神の教えです。

この世には、私たちの目には見えない浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマスという三つの性質(グナ)が存在し、それらは人間の感覚から侵入してきて、人間の心(マインド)に影響を及ぼしています。よって人間が感覚を抑制できずにいると、グナの束縛によってマインドは利己的な思考と衝動におちいり、人間の内にある神性という宝を見えなくさせてしまうのです。つまり人は、マインド(利己的な心)に動かされているあいだは、ハートにある良心、すなわち神性意識に基づいて行動することを忘れてしまうのです。人間に与えられている知性は、グナのたまり場であるマインドによって利己的なことに誤用され、各自に内在する神性が見失われています。この内なる神性は、人間が高遠なる目的に到るために神から授けられた特別な贈り物なのです。

人格に及ぼすマインドの影響を知れば知るほど、神性が授けられていることの尊さがわかってきます。人は五感を通して外部から侵入してきた刺激や誘惑にすぐに反応し、さまざまな感情や欲望が湧き上がります。反応するように誘うのが、グナの住みかであるマインドです。欲望が増えると執着も増えていきます。欲望が満たされないと否定的な感情が湧き上がります。それはますます多くの束縛へとつながります。束縛は、人がさまざまに苦しむ原因となります。すべての苦しみの原因は、グナのたまり場であるマインドなのです。マインドで生じた自分自身の欲望や否定的な感情が、束縛をつくり出すのです。直面したことにすぐに反応して、生じた怒りや感情に自分自身を同化させてしまうと、正しい判断ができなくなります。気に入らないことがあるたびに反応して、グナのたまり場であるマインドで湧き上がった思いを自分の思いとして受け入れてしまうと、識別力がはたらかなくなるのです。人間の思念は当人の性格の中にしみ込んで、人格の一端を成します。だから悪い思いを野放しにせず、自分の思いを調べる習慣を身につけ、その思いを吟味し、否定的な思いを取り除く努力をしなければなりません。この感覚の抑制を助けてくれるのが、内なる神性です。常に神を思い起こし、心(マインド)に入ってきた思いが正しいかどうか、内在の神の御心にかなうことかどうか、これらの質問を内なる神に伝え、自分の思いを吟味する訓練を続けていかなければなりません。そういう訓練をすることで、マインドは神の方を向くようになります。もしそうした訓練を怠るならば、マインドは感官に向いたたままで、内なる神性を無視して勝手な行動をとります。感官に向いているマインドを神の方へと向かせない限り、グナの束縛、つまりエゴの支配から解放されることはなく、そこには心の平安はまったくありません。神を思い起こすとは、感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるということです。感官に向いているマインドを内なる神性の方に向けることは、グナの束縛、すなわちエゴの支配から解放されるための最上の手段です。意識して神を思い起こし、五感をとおして外界と接触しているマインドを、内なる神性へと向かわせなくてはなりません。こうした努力によって、内なる神がブッディ(識別する知性)を通してはたらくのを実感するようになるでしょう。感官に向いているマインドを、意識して内なる神の方へと向けることによって、ハートにある神性意識(良心)が、人間の理智鞘にあるブッディ(識別する英知)を通してはたらき、識別して行動する力(ブッディ)が活動を始めるようになります。ハートの扉が開いて、神の恩寵が流れ込み、神性意識(良心)によって、善へと導かれるのです。グナの住むマインドの言いなりになり、マインドの奴隷のようになっているのではなく、神を思い起こして、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すならば、マインドは神の方を向くようになります。ただし結果に執着してはなりません。結果については神にゆだねて平安でいることです。自分の義務を誠実に遂行して、神に捧げればいいのです。こうして感官に向いているマインドを内なる神の方に向けて心を浄めていくならば、グナの束縛、つまりエゴの支配から完全に解放されて真の自由を獲得するでしょう。こうしてあらゆる執着から解放されて自由になること、それが解脱です。「真理はあなたがたを自由にする」とは、このことを言っているのです。

この地上に平和をもたらすには、一人ひとりが徳性を身につけ人格向上を目指さなければなりません。そのためには、一人ひとりが内なる神性の尊さに気づく必要があります。ゆえに、霊性の学びは必要不可欠です。霊性とは、人間の身体と魂のなかの神性アートマの関係を示すものです。人間は霊魂を宿す霊的存在であるからして、霊性は宗教がなくても存在します。人間の魂の中に、神性をそなえた真の自己が宿っているのです。その真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。まさに人間の魂の中に、神の霊がアートマ(内在の神)となって住んでいるのです。魂の中の真の自己アートマは、不死であり、老いや死や悲しみ、渇き、空腹からも影響を受けることはありません。この永遠の命を得るために、霊性について学ぶことはとても重要なことなのです。霊性は、物質世界でいかに幸せに生きるかを教えてくれる処方箋であり、自分の人生をどのように扱ったらよいのかを教えてくれる人生の取り扱い説明書です。すべての問題を改善してくれる妙薬は、自分の内面にあるのです。霊性の原理、すなわちアートマの原理を学ぶことは、永遠の命を得るために必要なことなのです。

聖賢ヴァシシュタは、人々にこう教えました。
「一人ひとりの心臓の奥に宿る魂の中に、神はアートマ(内在の神)となって住んでおられる。神に知られずにできることは何一つとしてないのだ。肉体の姿形は人によって異なるが、各自に内在するアートマに何ら違いはないのだから、外見だけで人を差別してはならない。すべての人にまったく同じアートマが宿り、すべての人に等しく神性がそなわっている。すべての内なるアートマは、われわれの肉体意識を超えた領域ですべて一つに結ばれ一体になっているのだ。アートマの原理は、人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じであり、各自に内在する神を傷つけていることに等しい、という真理を教えている。それゆえ、思いによっても言葉によっても行いによっても、人を傷つけないようにしなさい。いかなる差別も慎み、すべての人の中に神を見る訓練をして、一体性の内に生きるならば、人類はアートマという神の愛で結ばれた一つの家族であるという一体感が芽生え、この地上に平和をもたらすことができる。魂の観点からみるならば、あなたがたの本当の親は神であり、すべての人は兄弟姉妹なのだ。しかし、マーヤーという幻影がこの世を覆い隠し、真理を見えなくしている。そのため五つの鞘をもつ人間は、迷妄の中に置かれている。人間の心の鞘(マインド)は、外界から感覚をとおして侵入してくるさまざまな刺激や誘惑に反応して、マインドは貪欲になったり怒ったり妬んだり憎んだりしている。自分の感覚を野放しにしていると、グナによって汚れた思考が心(マインド)の中に入り込み、あなたがたの人格をひそかに侵食していく。それゆえ、あなたがたは感覚の抑制に努めなければならない。感官に向いているマインドを神の方に向けることは、心(マインド)を浄めるための助けになる。神を憶念し神の御名を唱えることは、心の浄化や集中を得るために最も容易な道なのだ。神の御名を繰り返し唱え、あらゆる行為を神に捧げる思いをもって為すならば、エゴの介入する余地はなくなる。それがエゴを鎮静化させるための最も手早い方法である。霊性修行の目的は、すべてのものの内に神を見るように心を訓練することなのだ。霊性修行は心(マインド)に仕事を与えることであり、心(マインド)を正しい方向に忙しくさせることによって悪い行為に関する想いを絶ち、雑念を遠ざけ、心を静かにさせて心の平安を保つことを助ける。すべての人の内に、そしてすべての困難の内に神を見るようになりなさい。神を思い起こすとは、感官に向いているマインドを神の方に向けるということである。あらゆるものの中に神を見るようになり、心が浄められていくと、理智鞘にあるブッディ(識別する英知)をとおして神の恩寵が流れ込み、ハートにある神性意識(良心)によって善へと導かれる。こうしてひとたび神は自分の中にいると信じれば、心(マインド)は不動に保たれる。ひとたび心が不動になれば、もうマントラを唱えたり、神の御名を唱えたりする必要はなくなる。そこに行きつくまで、神を憶念し神の御名を唱えるという霊性修行を続けなさい。自分のすべての行いを神に捧げる思いをもって為しなさい。結果はすべて神にゆだねて、平安でいなさい。それがもっとも容易で効果のある霊性修行である。人間の五感をとおして外界と接触しているマインドが、五感を制御して外界との接触から身を引くと、執着するものが何もなくなり、心(マインド)は不動になるのだ。すると心の平安が訪れる。だからマインドが世俗の刺激や誘惑ではなく、神の方を向くよう、神を憶念し神の御名を唱えることを続けなさい。一なる神は、すべての人の内にアートマ(内在の神)となって住み、一人ひとりが神性に目覚める瞬間を待ってくれておる。人がこの内なる神アートマに心を向ければ、このアートマが最高のガイドとなって、人間を守り導く。このアートマ(内在の神)への信頼が、人間の自信になるのだ。だから、あなたがたの源である内なる神アートマを決して忘れてはならない。マインドを感官ではなく、内なる神アートマに向け、アートマに信頼を置きなさい。アートマを敬い、アートマを崇めなさい。内なる神アートマをあなたがたの人生の土台として扱いなさい。これが、人間が守るべきダルマである。唯一、内なる神アートマへの信頼だけがあなたがたを守ることができる。どんな仕事をするときも、内なる神アートマへの揺るぎない信頼をもって行いなさい」

世界平和のマントラ「ローカー(ハ) サマスター(ハ) スキノーバヴァントゥ」(世界中の生きとし生けるものすべてが平安で幸福でありますように)というヴェーダの根本をなす祈りが、コーサラ国に住む人々の間に互いを思いやる一体性を生み出し、道徳的価値を重んずるダシャラタ王の理想が国のすみずみまでいきわたっていました。この国の大臣たちも高尚な心の持ち主で、感覚的な欲望の世界に浸りきっているような人は一人もいませんでした。真の幸せは内なる神アートマに近づくことであって、五感で知覚し得る対象に幸せを求めても、それはかりそめの幸せにすぎないということをヴァシシュタ仙から教えられていたからです。彼らはヴェーダに精通し、常に利他の心で他人の利益になることに力を注ぎ、自分たちの義務をダルマに従い献身的に果たしていました。ヴァシシュタ仙をはじめとする聖者の教えは、アヨーディヤーの都はもちろんのことコーサラ国全体に浸透していました。まさに霊性と世俗的な生活を調和させた生き方が、そこにはあったのです。コーサラ国の人々は、社会から受ける恩恵にとても感謝していました。それゆえ社会が自分たちにしてくれたことへの感謝の表現として、社会奉仕を行いました。人間は、社会や大自然の営みから恩恵を受けて生きているのです。奉仕はその恩返しです。

そんなすばらしい都城アヨーディヤーの中で栄光に包まれていたダシャラタ王には、たった一つの悲しみがありました。それは先祖代々の王家の血筋を継ぐ王子に恵まれなかったことです。ダシャラタはコーサラ国の王の娘であったカウサリヤーと結婚しました。しばらくして、カウサリヤーは女児を出産しました。その赤子はシャーンターと名付けられましたが、男児を望んでいたダシャラタはその赤子を親友であるアンガ国のローマパーダ王のところに養女に出しました。しかしその後、子供はできませんでした。そこでダシャラタ王はもう一人妻を迎えようと思いました。当時の一般的な慣習として、別の女性と結婚するには事前に最初の妻の許しを得なければなりませんでした。そこでダシャラタ王はカウサリヤーのところに行って、別の女性を妻に迎えたいと話しました。カウサリヤーは「かしこまりました。思い通りになさってください」と答えました。カウサリヤーの許しを得て、ダシャラタ王は息子を得ることを期待してスミトラーと結婚しました。しかし、スミトラーとの間にも子どもはできませんでした。そのためダシャラタ王は困り果ててしまいました。

その頃、ダシャラタ王はケーカヤ国の王にカイケーイーという美しい娘がいるという知らせを受けました。ダシャラタ王はケーカヤ国の王のところに行き、自分にはすでに二人の妃がいるがあなたの娘と結婚したいと告げました。ダシャラタ王は常に真実を語ってきました。ダシャラタ王は一度も真実でないことを言ったことはありませんでした。ダシャラタはケーカヤ国の王にすべてを詳細に説明しました。するとケーカヤ国の王は、「私の娘をあなたに嫁がせましょう」とダシャラタ王の申し出を承諾してくれました。こうして、盛大な祝賀をもって婚儀が執り行われました。もちろんこの第三王妃との婚儀もまた、事前に第一王妃と第二王妃の許しを得て行われたのでした。

しかしながら、カイケーイーにもいつまでたっても子どもはできませんでした。それゆえ、世の中のすべての富と安楽を所有しながら、ダシャラタ王は幸福ではありませんでした。王家を永続させるためにどうしても息子が欲しかったのです。ダシャラタ王は自分の息子の生まれることを願って心を悩ませていました。このダシャラタ王には、誠実で徳があり清らかなハートをもつスマントラという大臣がいました。王の幸せを心から願っていたスマントラは、ある日ダシャラタ王のもとに出向き次のように話しました。「王様、国の繁栄と国民の幸福の永続のためにアシュヴァメーダ(馬祀祭)を執り行い、そしてご子息が授かることを願ってプトラカメーシティ・ヤグニャ(男児を授かるための供犠)を行ってはいかがでしょうか。アンガ国を統治するローマパーダ王は、リシュヤシュリンガという名の聖者が激しい飢饉から王国を救ってくれたことを大変喜んでおられました。聖者リシュヤシュリンガはそれらの儀式について熟知しているお方です。それゆえ祭祀を執り行うにあたり、主祭司官として聖者リシュヤシュリンガをわが国に招かれることをおすすめ申し上げます」ダシャラタ王はスマントラのこの言葉を信頼し、自国の祭司官であるヴァシシュタ仙の同意を得た後、大臣スマントラに二つの供犠祭式の準備を命じました。

アンガ国のローマパーダ王は養女として迎えたシャーンター姫をたいそう可愛がり、深い愛と真心をもって育てました。シャーンター姫が年頃になると、ローマパーダ王はリシュヤシュリンガという若い聖者に嫁がせました。ダシャラタはローマパーダ王とは友好関係にあり信頼し合っていたので、聖者リシュヤシュリンガのことを話すとローマパーダ王は大変喜び、早速都合をつけてダシャラタ王とスマントラを彼の庵まで案内してくれました。ローマパーダ王の説得もあり、聖者リシュヤシュリンガはダシャラタ王の求めに応じてアヨーディヤーに行くことを承諾してくれました。そして彼は、妻シャーンターを伴ってダシャラタ王の都アヨーディヤーを訪れたのです。

ダシャラタ王は自国の大臣や顧問官、そしてヴェーダに精通したヴァシシュタ仙をはじめとするすべての徳高いバラモンたちを残らず招集し、聖者リシュヤシュリンガを前にして、こう語りました。「神が定めたもうたままに、ヴェーダに規定されたことに従って祭祀を執行したいと考えている。どうか聖者リシュヤシュリンガと共に祭式を執り行う準備をしてくだされ。すべてに心をこめて誠実に行い、この神々への祈願の間中だれも心を痛めることなく、供犠の目的がめでたく聞き届けられるよう、秩序と調和を守ってそれぞれの任務を遂行してくだされ!」

最高の善をもって準備にあたり、最高のシュラッダ(信念と注意深さ)をもって油断なく任務をこなし、皆が一体となって調和の中で準備は順調に進められていきました。満一年が経って、素晴らしく美しい春が再びめぐってきたとき、神そのものである聖者リシュヤシュリンガは言いました。
「ダシャラタ王よ、多くの人々が心を合わせて祭祀の準備をすすめてまいりました。滞りなく行うための用意はできております」

ヴァシシュタ仙とリシュヤシュリンガ仙の二人の導きに従い、ダシャラタ王はその日の星宿の運行が吉祥な時に王宮からお出ましになられました。そこで、ヴァシシュタ仙をはじめとする最高のバラモンたちは、リシュヤシュリンガ仙を先頭にして祭式をはじめました。すべての人々はヴェーダの定めるところに従い、正しく祭場に入りました。そして栄光に輝くダシャラタ王は三人の妃たちと一緒に潔斎に入りました。聖仙リシュヤシュリンガは天の啓示を受けて、アタルヴァヴェーダに記されたマントラを唱え、不思議な力を発揮する子授けの祭祀を論典の規定に従い、ダシャラタ王に男児が生まれることを祈願しました。

ヴェーダのマントラが唱えられるなか供犠の火に供物が捧げられると、聖なる護摩壇からナーラーヤナ神はパーヤサム(米の菓子)が入った器をもって姿を現しました。それをダシャラタ王に手渡し、王妃たちに分け与えるようにと言いました。徳の高い行いと、ダルマの道に則った道徳的で霊的な生き方によってダシャラタ王は神の恵みを受けることができたのです。神の恩寵は、まことにその人の努力にふさわしい形であらわれます。ダシャラタ王はそのパーヤサムを三つの容器に平等に分けて、カウサリヤーとスミトラーとカイケーイーの三人の妻に分け与えました。ダシャラタ王は妻たちに沐浴をして体を浄めた後、パーヤサムを食べる前に聖者リシュヤシュリンガの祝福を求めるように言いました。

妃たちは王の言葉にしたがい身を浄めた後、聖者リシュヤシュリンガの祝福をうけました。カウサリヤーとカイケーイーはパーヤサムをそれぞれ自分の礼拝の間に持っていきました。スミトラーは日向で髪を乾かすためパーヤサムの入った器をもってテラスへ行き、手すりの上に置きました。すると突然、一羽の鷲が空からさっと舞い降りてパーヤサムの入った器を持ち去り、山の上に置いたのです。その器を山の上で瞑想をしていたアンジャナー女神(風神ヴァーユの妻)が見つけて、神聖なパーヤサムのご相伴にあずかりました。その結果、アンジャナー女神は身ごもってハヌマーンを産んだのでした。

スミトラーはカウサリヤーとカイケーイーのところに走って行き、困った事情を話しました。カウサリヤーもカイケーイーも彼女に同情しました。カウサリヤーはスミトラーを助けるために、すぐさま同じような器を持ってきて自分のパーヤサムの半分をスミトラーに与えました。カイケーイーもそれに見習いました。スミトラーは二人の心ある配慮と協力をうれしく思いました。この時代の妻たちの間には完全な調和があったのです。特にスミトラーは美徳の鑑でした。スミトラーという名前自体、「良き友」を意味し、スミトラーが全ての人にとって良き友であることを表わしています。三人の妃はそれぞれの礼拝の間に行き、神聖なパーヤサムをいただきました。

それから九か月が経ちました。吉祥の日、カウサリヤーはラーマを産みました。ラーマという名前には、万人を幸福にする者という深い意味があります。ヴィシュヌ神をあらわす「ラー」と、シヴァ神をあらわす「マ」が、神聖な神の御名「ラーマ」なのです。カイケーイーはバラタを、そしてスミトラーはラクシュマナとシャトルグナの双子を産みました。それは五大元素がたがいに調和する時刻でした。ダシャラタ王のこの四人の息子は、四つの『ヴェーダ』の化身です。王子たちが生まれたとき、天上の楽人ガンダルヴァは精妙なる音楽を奏で、天女たちは舞い、神の太鼓はとどろき、花の雨が空から降ったのでした。

聖賢ヴァシシュタはラーマが誕生したとき、まさに最高神ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)みずからが肉体をまとって降臨されたその御姿を見て、感極まり涙があふれました。ヴァシシュタがこの王国の祭司官としてこの王宮に来たのは、ダシャラタ王の家系に誕生するであろうナーラーヤナ神(ヴィシュヌ)の化身ラーマと共にいられる幸運にあずかるためであり、ダシャラタ王の富や地位に引き寄せられたからではありませんでした。

相次いで生まれた四人の王子はいずれも偉大な精神の持ち主で、美徳を具えているばかりでなく、容姿すぐれて端麗で秋月のように輝いていました。ダシャラタ王に四人の息子が生まれたことは、王家に幸福をもたらしました。そして国中が喜びに包まれました。しかし、スミトラーは特異な問題に直面しました。スミトラーの二人の息子ラクシュマナとシャトルグナは生まれたときから泣き続けていたのです。母乳を飲もうともせず、眠ろうともしないのです。二人はまったく泣き止みません。息子たちの悲しいありさまを見たスミトラーは当惑しました。カウサリヤーとカイケーイーの息子が揺りかごの中で幸せそうに遊んでいる一方で、スミトラーは自分が産んだ二人の息子がなぜ泣き続けるのかわからず途方に暮れ、二人の機嫌を良くしようとさまざまな方法を試みましたが、何の効果もありませんでした。ダシャラタ王はスミトラーが産んだ子どもたちの奇妙な病を癒すため、数人の医者に相談しました。けれども何の効き目もありませんでした。そのため、スミトラーはこの問題の最後の頼みの綱としてヴァシシュタ仙に指示を仰ぎました。聖賢ヴァシシュタはしばらく瞑想し、真実を霊視しました。そしてスミトラーにこう言いました。「スミトラーよ、何も心配はありません。どんな薬も必要ない。あなたがカウサリヤーから与えられた聖なるパーヤサムの半分を口にしたことにより、ラーマの一部であるラクシュマナが生まれました。同じく、カイケーイーから与えられたパーヤサムの半分を食べたことによりバラタの一部であるシャトルグナが生まれたのです。それは神秘的な深い絆によるものです。ラクシュマナはラーマと離れていることに耐えられず、シャトルグナはバラタと離れていることに耐えられないのです。それゆえ、カウサリヤーの許しを得て、ラクシュマナをラーマの横に寝かせなさい。同様にカイケーイーの許可を得て、シャトルグナをバラタの横に寝かせなさい。そうすれば二人は泣き止み、普通の赤子のようにふるまうでしょう。真理の側面から言えば、個我は自らの源である絶対我(パラマートマ)から離れて生きることができないのです。ラクシュマナとシャトルグナがそれぞれラーマとバラタに結びつくまで泣いていたというのは、自分の源である神から離れて生きることは不幸なことだからです。個我は神と一体となって初めて、真の幸福を見つけることができるのです」それを聴いたスミトラーは早速カウサリヤーとカイケーイーのところに行き、事情を話しました。彼女たちは言いました。「スミトラーよ、いますぐラクシュマナとシャトルグナを連れていらっしゃい。ラクシュマナとシャトルグナもわたしたちの子供です。四人の兄弟がいっしょに育つのを見ることができるとは、なんと喜ばしいことでしょう」スミトラーは二人の妃の優しい思いやりに感謝し、ヴァシシュタ仙に教えられたとおりにしました。すると、ラクシュマナとシャトルグナの二人は即座に泣き止み、それぞれの揺りかごで幸せそうに遊びはじめました。スミトラーは息子が成長したら、ラクシュマナはラーマに仕え、シャトルグナはバラタに仕えるであろうことを思い、とても幸せでした。そして子供たちのゆりかごを揺らしながら、そこにいつも「神」を見ていました。

歳月は流れ、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの四人の兄弟は、父と三人の母の愛情深い庇護のもとで、すばらしい勇気と智慧と徳を具えた立派な若者に成長しました。この四人の兄弟たちの教育にあたったのが、賢者の中でもよりすぐれた智慧と徳を具えた聖仙ヴァシシュタでした。四人の兄弟は五歳のときに「ガーヤトリー・マントラ」をヴァシシュタ仙から伝授され、十歳になるまでに四ヴェーダを習得しました。道徳的な知識、社会生活で必要な世俗的な知識と学問、霊的な知識を学び、常に他人の幸福を重んずるようにと教えられました。獲得した知識の中で最も重要な知識は霊的知識です。徳性が身についていない学識は、社会に役立つことはないからです。世俗の学識に霊性が伴っていなければ、それはただ単に自分の生活の糧を稼ぐための知識になってしまうでしょう。

高潔な徳性を身につけた四人は、弓矢、剣術、乗馬技術といった武芸も習得しました。ラーマに弓矢の手ほどきをしたのは、カイケーイーでした。というのは、カイケーイー自身が弓の名手だったからです。カイケーイーは、ラーマに大きな愛と情熱をもって武芸を教えました。こうして四人の兄弟はヴァシシュタ仙から学んだあらゆる学問を智慧へと高め、ヴェーダの奥義を極め、美徳をそなえた立派な若者に成長しました。

ラーマは誠実の勇士であり、ダルマ(正義)を固く守り、あらゆる人を自分のことのように大切にし、しかも両親に対してはとても従順でした。そして兄弟四人の間には完全な一体性がありました。彼らはただの一度も喧嘩をしたことがなく、彼らの間にライバル意識が芽生えることはありませんでした。彼ら兄弟は勝ち負けの結果に執着することはなかったので、悪感情が生じることはなく、むしろ一体性を育むことができました。競争心やライバル意識は正しく使われなければ怒りや妬みの感情を生み、自己破壊的なエネルギーの浪費になります。不健全な競争心やライバル意識をエネルギーにして毎日を過ごすということは、情熱とは違います。ライバル意識を燃やすということは、常に怒りや妬みの炎で自分の体を焼いているのと同じことです。自分の能力やエネルギーはライバルへの対抗心など余計なことに使わず、自分自身を磨くことに向けるべきなのです。そしてライバルが困っていたら手を差し伸べ、ライバルが自分よりもいい仕事をやり遂げたなら、自分のことのように喜んであげるのです。このように慈しみの心を持って人と接すると、相手にもやさしい感情が芽生え、社会全体に慈しみの心が広がっていきます。社会全体が競争社会となり、怒りや妬みといった悪い感情が社会に蔓延することがないようラーマは最善の注意を払い、日々の活動の中で霊的理想に一致するようなやり方で人々に接しました。

ラーマは王宮の中で飼われていた動物たちにも深い愛情を注ぎました。肉体の人間同様、動物たちも空腹や渇きを感じます。人間はお腹がすけば食べ物が欲しいと言えますが、動物は言葉で想いを表現できません。ラーマは自分が食べることを忘れても、動物たちに食事を与えることを忘れたことはありませんでした。ラーマは動物たちの想いさえも、自分のこととして見ていました。

この世のあらゆるものが神のあらわれです。自然にあるものは、すべて神です。宇宙を包括する神の広大な体の中で、あらゆることが繰り広げられているのです。すべてに浸透している神はまた、極最小の光となってすべてのものの内にいます。神と人間の関係は、電気の仕組みにとてもよく似ています。電気のおおもとの電流が神で、電球の一つひとつが人間です。電球(人間)はその根源である電気の源(神)から流れ出る電流(アートマの光)によって、生かされているのです。電球を覆っているガラス(肉体)は、一つ二つと数えられますが、この電球のガラス(肉体)が壊れてなくなれば、浄化された魂の生命霊の光の波動は一つに混ざりあって、アートマの至福の中に溶け込み「わたし」「あなた」の区別がなくなります。浄化されていない魂は、肉体がなくなっても個別意識をもっています。肉体意識を超越して覚りに至った魂は、自他の区別を超えた聖域に入り、他の人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じであり、神を傷つけていることに等しいということを認識します。アートマを覚った魂には、自他の区別がなくなります。自分も他人なのです。すべては自分の多様性のあらわれと見るのです。だからすべてを愛し、思いやりを注ぐことができるのです。人間の心臓の奥深くに埋め込まれている魂の中の霊は神の分霊であり、そこに神性アートマが光り輝いています。人間だけではなく、生きとし生けるものすべてに神の光は内在しています。万物に神が内在し、あらゆるものが一なる神のあらわれなのです。これが神の化身の教えであり、ヴェーダの説く不二一元論、すなわち多様性の中の一体性の原理です。魂の成長のためには、アートマの真理を知り、人格を磨いていくことは大切なことなのです。

ラーマはその真理をよく理解していました。だから動物たちに食べ物を機械的に与えたことは一度もありませんでした。動物たちに愛を感じてもらえるように接しました。世話をするときも、彼らの内に輝く神の光を見て、自分の愛が神に届くよう真心をもって誠実に尽くしました。一頭一頭の顔や額を愛情と思いやりたっぷりにさすってなでました。すると動物たちはラーマの肩に頭をこすりつけて感謝を示しました。どんなことでも、ラーマのすることにはいつでも格別の魅力と美しさがありました。それは、一つひとつの行為に注ぐラーマの途方もなく深い愛情からくるものでした。ラーマはいかに愛するかを知っていました。いかなる仕事にも愛を込め、シュラッダ(注意深い気づかい)を忘れませんでした。こうした何の報いも期待しない無私無欲の姿勢が、その場所に美しい波動を生み出すのです。自分のまわりに清らかな波動をつくりだす方法を、ラーマは人々に行動で示したのです。そんなラーマのことが人々は大好きでした。ラクシュマナは、このように世間の人々から敬愛される兄ラーマを誇りに思いました。ラーマに仕えることはラクシュマナにとって最高の喜びであり、最大の学びでした。ラクシュマナの弟シャトルグナもまた、バラタを自分の命よりも大切に思い、無私の心で懸命に尽くすのでした。

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