ヴィシュワーミトラに伴われて、ラーマとラクシュマナは森の中へと足を踏み入れました。食事は森の中にある果実や木の実や草の根などでした。今こうして偉大なる神の化身ラーマと共に時を過ごせていることは、ヴィシュワーミトラにとって無上の喜びでした。そしてそれは、ひとえに大聖者ヴァシシュタのおかげであることを思い、感謝の思いがこみあげてくるのでした。ヴィシュワーミトラを聖者へと引きあげてくれたのは、なんとヴァシシュタ仙だったのです。その昔、ヴィシュワーミトラとヴァシシュタ仙との間には、こんな出来事がありました。
聖者ヴィシュワーミトラは、かつて王国の王様でした。王様だったヴィシュワーミトラはあるとき兵隊を大勢引き連れて狩猟に出かけました。狩りが終わると、軍勢は疲労して休息が必要になりました。ヴィシュワーミトラ王はその近くに大聖者ヴァシシュタの庵があったことを思い出し、兵隊を連れてその庵に向かいました。ヴァシシュタ仙はナンディニという名の聖牛を飼っていて、この聖牛はヴァシシュタの望みをなんでも叶えることができました。ヴィシュワーミトラ王が軍隊を引き連れて庵にたどり着くと、ヴァシシュタ仙はこの望みを叶える聖牛の力を借りて、すぐさま全員を豪華な食事でもてなしました。ヴィシュワーミトラ王はこの聖牛の不思議な力に、目を見張りました。そしてこんな貴重な動物は当然この国を治める国王のものでなくてはならない、世を捨てた聖者には必要ないものだ、と突然そう考えたのです。ヴィシュワーミトラ王がその思いを聖賢ヴァシシュタに伝えると、ヴァシシュタは王様が牛を連れていくことに何のためらいもなく承諾しました。しかしいざヴィシュワーミトラ王が牛を引いていこうとすると、牛は抵抗して一歩も動こうとしません。王様はなんとか宮殿へ連れて行こうとしましたが、どうやっても動きません。ヴィシュワーミトラ王は真っ赤になって怒り、兵隊の力を借りて力ずくで牛を引きずっていこうとしました。すると聖牛ナンディニはその体の中から武装した兵士を何千人も生み出して、それに対抗しました。そして合戦は、聖牛ナンディニの兵隊が国王ヴィシュワーミトラの軍隊を破る結果になりました。ヴィシュワーミトラ王は、牛がその力の源を大聖者ヴァシシュタから引き出しているのに気がついて激怒し、今度はヴァシシュタに挑みかかり、雨あられのように矢弾を浴びせました。しかし聖賢ヴァシシュタはまったく動じず、満面に微笑みを輝かせたままヨーガ行者の持つ杖を片手に高く持ち、大地に根が生えたように立ち尽くしていました。大聖者ヴァシシュタの心には敵意も怒りも憎しみも存在しない。ヴァシシュタは本物の聖者であって、エゴやあらゆる否定的な感情を超越していました。聖賢ヴァシシュタの杖のまえにはどんな武器も無力で、ヴィシュワーミトラ王はじきに弾がつきて敗北し、大きな屈辱を味わったのです。その衝撃は、はかり知れませんでした。もっとも強大な王国の王様として一世を風靡していたにもかかわらず、その無敵な軍隊も武器も、ヴァシシュタのような大聖者の前には無力に等しかったのです。ヴィシュワーミトラ王は、このように敗れたことをとても恥ずかしく思いました。自分がまるで翼のない鳥のような、牙のない蛇のような、光を失ってしまった太陽のような気がしました。ヴィシュワーミトラ王は怒りに燃えて王宮に帰ると、自分の息子に王位を譲り、自分はあの聖者のような力を得ようと森に隠遁しました。ヴィシュワーミトラは、ブラフマリシ(最上位の聖仙)として崇められていたヴァシシュタ仙を妬み、自分もその称号を得ようと苦行を決意したのです。しかしブラフマリシの称号は、神の恩寵を得るにふさわしい者にしか与えられないことを、その頃のヴィシュワーミトラには知る由もありませんでした。相手を打ち負かすことだけが目的で始めた苦行を、神は決して承認することはありません。長年の間、王は苦行に励みました。その苦行は、聖賢ヴァシシュタに復讐することだけが目的でした。ヴィシュワーミトラは厳しい苦行を積み、そしてヴァシシュタに復讐するために再び世に戻りました。しかし何度復讐しようとも、それらはすべて失敗に終わってしまい、そのたびにヴィシュワーミトラは修行を激しくしていき、苦行を繰り返しました。何回失敗しても絶対にひるまず、復讐の執念に燃えてひたすら苦行を重ねつづけ、それによってヴィシュワーミトラは特殊な力を身につけました。そしてとうとう刹那的快楽に満ちた別の天界を新しく一つ創り出すまでになったのです。それはあくまでもヴァシシュタに挑戦するためでした。しかしヴィシュワーミトラが創造したもう一つの宇宙は、主神の意志に反するものだったので長続きしませんでした。王は、ヴァシシュタ仙に対する怒りをどうしても抑えられず、その怒りは憎しみを生み、ヴァシシュタ仙を負かすためにさらなる特別な力を欲したのです。神の覚りに達していなくても、激しい苦行によってこうした霊力をもち得ることがあるのです。しかし神の覚りに達する以前に身についたこうした特別な力は、社会のために役立つことは決してありません。特殊な霊力を獲得したヴィシュワーミトラは自分の力を自負し、さらに傲慢になりました。ヴィシュワーミトラは無数の奇跡を演じたけれど、聖賢ヴァシシュタへの激しい怒りをもったまま行った奇跡は、世界のために役立つものではありませんでした。むしろ己の道に数えきれないほどの障害をつくり出してしまったのです。ヴィシュワーミトラの行いの背後には、いつも憎しみが逆巻いていました。ヴィシュワーミトラは峻烈な苦行を実践して莫大な霊力を得、そしてとてつもない奇跡を演じることができましたが、霊力を使って奇跡をおこなえば行うほど、苦行で得た力は失われていきました。奇跡をおこす力を悪用し乱用したからです。ヴィシュワーミトラが世に戻って苦行で獲得した力を試すたびに、ヴァシシュタ仙は庵の前にしっかと立ち、手には杖一本だけを持ってヴィシュワーミトラと向き合いました。その力はすべて残らず、神の威光を放つヴァシシュタ仙の杖によってたたき落とされてしまったのです。聖仙ヴァシシュタの体からは光がほとばしり出て、杖は火のように光り輝いていました。王はまたまた敗北したのです。ヴィシュワーミトラはすさまじい執念をもって挑み続けましたが、自分の力ではにっちもさっちもいかないことを心の底から体験し、最後に負けを自ら認めざるを得ないところまで追い詰められました。万策尽きて、どうしようもない絶望感、無力感の中で、とうとう主にゆだねるしかなくなくなったのです。このような究極の敗北感は誰にでも必ずやって来ます。エゴには限界があるからです。完全な敗北を体験して心は沈黙し、そしてようやく神に向かうのです。こうしてヴィシュワーミトラは、自分が何に負かされたかに気づいたのです。王は、自分の修行が強欲と憎しみをもったままの苦行であったことを悔いました。それからさらに長い年月をかけて修行に励み、自分の心を浄化したのです。エゴをもったままで行う霊力の乱用は自然の法則に逆らっていて、奇跡を演じれば演じるほど自然の法則を乱すことになるのです。しかしそんなヴィシュワーミトラの態度にも変化が訪れ、ついに真我アートマの悟りに到ることができました。それは心を浄めることに成功し、「私」「私のもの」といったエゴを完全に超越したときにはじめて可能になったのです。聖者への復讐心を捨て、他者を害するために力を使うのをやめ、すべての人に自分とまったく同じアートマが宿っていることを認識して、人々を等しく愛するようになり、世界全体に益をもたらすことができるようになってはじめて、神の恩寵によって本物の覚りが得られるのです。
ヴィシュワーミトラは自分の過去を振り返って、こう語りました。
「ヴァシシュタ仙は、大変愛情深い方だった。わたしが王だった頃、自分でも気づかないうちに潜在的に膨らんだわたしのエゴを見抜き、大切な気づきを与えるために、聖牛ナンディニを使って荒療治にでたのだ。このとき自分は憎しみから厳しい修行に挑み、奇跡をおこす特別な力を欲した。しかし、相手を蹴落としたい一心で苦行に励んだ末、ようやく手に入れた力はどれもこれも心を完全に浄化したヴァシシュタ仙の前にはまったく無力だった。どの幻術も役に立たなかったのだ。そのときはじめて気づいた。いっさいの修行は心の浄化を目指すものでなければならないということを。心の浄化を果たし、アートマの真理を完全に覚って神との融合に至ったヴァシシュタ仙の完全なる勝利だった。自分が苦行の見返りとして獲得した力は誰にも負けず、怖いものなしだと自負していたが、しかしそうではなかった。自分を守る最大の武器は、愛以外にはないということを悟ったのだ。まさに愛にまさる武器は存在しない。愛こそが自分を守る最大の武器なのだ。幾多の転生を繰り返し、たくさんの人生をかけて苦行を行っても、神と人への純粋な愛がなければ神実現は不可能である。自分の愚かさをどれほど悔いたことか。しかしヴァシシュタ仙はこのわたしを責めず、わたしの心の変容を自分のことのように喜んでくれた。わたしがこのように成長できたのは、ひとえに神そのものであるヴァシシュタ仙の愛によるものだったのだ」
聖賢ヴァシシュタは完全な覚りをひらいた師で、五元素のすべてを制御して意のままに動かし、あらゆる神威の力を自由に使え、しかもエゴがまったくありませんでした。自分を執拗に攻撃し辱めようとするヴィシュワーミトラに対しても、まったく悪意をもつことがなく、ヴィシュワーミトラがどんなに屈辱を浴びせようとも、逆にヴィシュワーミトラの懸命に苦行に挑むその意志の強さと忍耐強さを誉めたたえていました。それは、ヴィシュワーミトラの心の向きさえ正しく変われば、その意志の強さと忍耐力によって完全な覚りへと導かれると見込んだからでした。
至高なる神の意識と完全に一体になっていたヴァシシュタは、どんな状況にあっても完全に心の平静を保つことができました。ヴァシシュタは常に至福にあふれ、澄み渡り、神威の力を使うときもその必要性が生じたときに限っていたので、その力は失われることはありませんでした。奇跡をおこす力をヴァシシュタのように正しいことのみに使い、そして必要なときだけに限るならば、その力は存続されるのです。
なんでも望みを叶える聖牛ナンディニは、物質的豊かさを表しています。その意味は、ひとたび真我アートマの覚りという究極の境地を得れば、世界中の富があなたのために仕えるということです。聖賢ヴァシシュタはあらゆる願望を超越しているので、その富を社会全体の利益や向上のために利用するのです。
天界において、至高神は神々から「ラーマ」と呼ばれて崇められています。ヴィシュヌ神をあらわす「ラー」と、シヴァ神をあらわす「マ」が、神聖な神の御名「ラーマ」なのです。そしてまたラーマは、一人ひとりの内に「アートマラーマ」として住んでおられるのです。ヴィシュヌ神はこの地上に肉体をもって降臨するとき、至高なる神の御名を周知させたいというサンカルパ(神の意志)から、この世にダシャラタ王の長子として生まれることを決意し、「ラーマ」という名を選んだのでした。
天界で「ラーマ」と呼ばれている至高神(ヴィシュヌ・シヴァ)は、仏教でいうところの“大日如来”(太陽神)でもあります。創造主ブラフマー神、維持者ヴィシュヌ神(別名ナーラーヤナ)、そしてエゴの破壊者シヴァ神(別名マヘーシュワラ)の三者は、完全に等しい力を有し、三位一体となってダルマを司っているのです。
三位一体を真理に基づいて言い換えるならば、一なる神が、創造にかかわるときはブラフマーと呼ばれ、生き物を護り維持するときはヴィシュヌと呼ばれ、エゴを破壊するという行為においてはシヴァと呼ばれるということです。すべては「一なる神」のあらわれなのです。
森の中を進み行くといくつもの庵があり、修行者たちがヴィシュワーミトラと二人の王子を歓迎してくれました。ラーマ王子は神の化身なのですべてに精通しているのですが、ラーマはグル(霊性の師)に対する尊敬の気持ちと模範的な態度、そして謙虚な姿勢を人々に示すために、自らすすんでヴィシュワーミトラ仙の弟子に徹することにしました。ラーマは、ここに集まった修行者たちのために霊性の原理について話してくれるようヴィシュワーミトラに頼みました。ヴィシュワーミトラは、かつて自分が学んだ霊性の真理についてこう述べました。
「マントラは永遠の原理であって、始まりもなく終わりもない。誰かが創作したものでもなく、初めからあった。言葉、すなわちマントラ(真言)は初めからあったのだ。マントラはヴェーダを形づくる神の振動で、不変に存在してきた。それを覚りをひらいたリシ(聖賢)が体験してマントラを把握し、人類に明らかにした。マントラは霊妙な世界でつねに存在していて、リシがそれを覚りの体験によって発見し捉えたのだ。そのことをリシは『マントラを見た』と表現した。リシがマントラを『見た』と言うとき、それはリシの全霊が実在の最高峰(神)に合一したときに、ヴェーダをハートの奥で体験したということだ。マントラによって霊性の種子が人間の中に植えつけられる。あなたがたは努力してその種子に養分をあたえなければならない。はじめのうちは、声を出さずにくちびるだけを動かしながらマントラを唱えなさい。そのつぎは、心の中で唱えるようにしなさい。その次の段階では、息を吐いたり吸ったりするたびにマントラを唱え、しまいにはマントラが自然に流れているようになりなさい。そしていつの日かある瞑想の境地に到達すると、そこで心(マインド)が静止し、マントラの繰り返しが自然に止むようになる。マントラを唱えることは、感覚を抑制して心を浄め内面を静かに保つことに役立つ。この内面の静けさが、自分を悪から遠ざけ、あらゆる害から護ってくれるようになるのだ。人間は自分のことを肉体だと思っているから、肉体が死ねば永久におしまいなのだと考える。しかし人間の本質は魂の中の真我アートマであって、肉体ではない。肉体の死はエゴが死ぬことにすぎない。人間はアートマであって、肉体ではないのだ。肉体は、地上生活での役割のために魂がまとっている衣にすぎない。その魂のなかに永遠不滅の真我アートマが住んでおるのじゃ。その真理を知って肉体の死を超越している者は、死に対する恐怖感は消えてなくなる。人間は感覚を超える力を秘めている。いつかは感覚を超えて神に達することができるのだ。すべての人に神が内在していることは真実である。だからすべての人を神だと思いなさい。それこそがほんとうに神を敬うことだ。自分だけのために働くよりも、人に尽くすことに大きな悦びがある。自分の中にいる神のために、他の人の中にも同じように宿っている神のために、奉仕するのだ。人に奉仕することが、神に仕えるただ一つの道である。この身体は神の住まいなのだ。あなたが食べるものは、神への捧げものだ。あなたが入浴するのは、あなたの中にいる神を儀式によって清めているのだ。あなたが歩く大地は、神の土地だ。あなたが得る喜びは、神からの贈り物だ。あなたが出会う悲しみは、神が与える学びなのだ。喜びから感謝を学び、悲しみから忍耐することを学びなさい。いつでも神を思いなさい。神と共に生きることが、まことの教育。神のために生きることが、まことの信仰。神の中に生きることが、まことの修行。最もすぐれた修行は、自分の思いを調べ内面を深く見つめて感覚の抑制に努めることなのだ。そして修行の第一歩は言葉を清めること。誰をも傷つけてはならない。怒りをもたず優しく話しなさい。言葉をつつしみ謙虚でありなさい。すべての人に自分とまったく同じアートマが宿っている。すべての人のアートマはあなたの意識を超えた領域で一つに結びついて一体になっているのだ。そのことを認識して、一体性を感じなさい。そうすれば自分だけの身勝手な思い込みは消えていく。そうなれば、自分だけの幸せよりも他者の幸せを思うようになる。まわりの人の幸せがやがて自分の幸せになる。どんな思いをいだき、どんな行動をとったか、その善し悪しが結果となってあらわれるのだ。過去の行為の結果が現在にあらわれ、現在の行為の結果が未来にあらわれる。あなたがたが今していることや抱いている思いは、必ず未来の反映、反響、反応となって外側にあらわれ出るようになっておる。だから自分の思いを野放しにせず、自分の思いを観察する習慣をもちなさい。過ぎ去った過去をくよくよ思う必要はない。未来のことも思いわずらうな。大事なのは現在だけだ。今だけに集中しなさい。祈りは、神の宿るハートから生まれるべきであって、議論や疑いがせめぎ合う頭(マインド)の中から生まれるものではいけない。サットグル(真の霊性の師)や神は、あなたたちの心をかき混ぜてかき混ぜて、そうすることによってこの上なく透きとおらせて、自分の内なる真我アートマが見えるくらいに透明にするよう鍛錬する。つまり、あなたがたは思考と衝動の束であるマインド(頭)を閉じて、無心にならなければならないということだ。マインド(頭)から出てくるものはすべて世俗的なものだ。ハート(良心)を開くためには無心になって、グナたちの住み家になっている心の鞘(アストラル体)の殻を打ち破り、次の精妙なる鞘に進んで行かなければならないということだ。でもそれは容易ではない。無心になるには、タパス(修行)から発生する熱によってマインドが溶け去るようにしなければならない。その熱は、サットグルの鍛錬と神へのひたむきな愛が伴って発生するものなのだ。執着するなら、神だけに執着しなさい。そうすればマインドを溶かして消し去る熱が発生する。タパスから生じた熱の中で、マインドは判断や予見のすべてを道連れにして溶け去ってしまう。そして、あなたはハート(良心)によって活動し始めるようになる。これが起こるためには、とてつもない忍耐力をもたなくてはならない。サットグル(真の霊性の師)はその全人生を、弟子や帰依者や社会全体を引き上げるために犠牲にする。忍耐強くあれば、サットグルからすべてを受けとることになる。神のことは、マインドや普通の知性では理解できない。肉眼だけで神を体験することはできないのだ。信仰と愛のみがその方法だと覚り、すべてを神にゆだねて幼な子のように自分を開いてはじめて、神を知ることができる。こうした霊性の真理を知らなければ、人生の目的がただ物質的に満たされることだけになってしまうのだ」
ヴェーダの中には、全ての宗教の神髄があります。ヴェーダのなかでも特に最終章ヴェーダーンタは、すべての人間にとって役に立つ叡智の宝庫です。ヴェーダーンタの教えだけを収めたものが、ウパニシャッド(奥義・秘義)です。ヴェーダーンタ(ウパニシャッド哲学)は、アートマの真理と不二一元論を説いています。アートマの真理とは、すべての人の心臓の奥深くに宿る魂の中に、神性をそなえた真我アートマが住んでいるという教えです。この内なる真の自己は、アートマ(内在の神)と一体になっている永遠不滅の存在で、神性をそなえています。わたしたちが呼吸をしようと意識しなくても、絶えずはたらいてくれている呼吸は、息を吸うときに「ソー」、息を吐くときに「ハム」と繰り返しています。一人ひとりの心臓で鼓動しているのは、まさに神なのです。この「ソー・ハム」はマントラです。神は、「ソー・ハム(我は神なり)」の呼吸を人間のために一日21,600回も繰り返しています。これは一日の平均的な呼吸数で、激しく活動するときやストレスを感じているときは呼吸は速くなり、心が穏やかなときや静かにしているときはゆるやかになります。呼吸が遅ければ遅いほど寿命は長いのです。人はその呼吸をまったく意識していませんが、呼吸はたえず「ソー・ハム(我は神なり)」と繰り返し、その呼吸のたびに、人間の心臓の奥深くに神が内在していることを、神は知らせてくれているのです。このアートマ(内在の神)が肉体から去ったとき、人間は肉体の死を迎えます。肉体はアートマがなければ存続できません。しかし肉体の死は、生の終わりではありません。肉体が滅んでも、神性をそなえた内なる真の自己は永遠に生き続けます。魂の中の真我アートマは不死であり、老いや死や悲しみ、渇き、空腹からも影響を受けることはなく、永遠不滅の存在なのです。この永遠の命を得るためには、ヴェーダが説いている「多様性の中の一体性の原理」、すなわち不二一元論を理解する必要があります。肉体の姿形は人それぞれで、肉体においては個々に独立した別個の存在に見えますが、内面においては何ら違いはなく、すべての人にまったく同じアートマが内在し、すべての人に等しく神性がそなわっています。パラマートマ(パラムアートマ)が、個々に内在するとき、アートマと呼ばれます。パラマートマは一なる神ブラフマーと完全に一体になっている至高神です。一なる神ブラフマーが、宇宙的存在として語られるときパラマートマと呼ばれ、個々に内在する存在として語られるとき、アートマと呼ばれます。人間の本質アートマと宇宙の本質パラマートマは、一なる神ブラフマーとまったく同一のものです。すべての人に内在しているアートマは、肉体の意識を超えたところで一つに結ばれ一体になっています。すべての人はアートマという神の愛の絆で結ばれた一つの家族なのです。多様に見えるあらゆるものの中にアートマは内在しています。すべては、一なる神のあらわれなのです。一なる神が万物に宿っているという意識が育ち、この確信をもてるようになれば、誰かに対して害を及ぼそうとする傾向をなくしていけます。すべての人に神が宿っているという事実を理解できるようになれば、相手を尊重する気持ちが生まれ、互いに誠意を示すようになります。自分の中にある神の性質を見いだすという義務を自覚するなら、自分の中で霊的変革が起こり、今の人生を有意義なものにしようという信念が生まれます。内なる神への信頼と神への愛が深まると、自分と同じ神性を宿している隣人をないがしろにできなくなります。多様性の中に一体性の原理があることを見て取れるようになると、「世界は一つの家族である」という一体感が芽生えます。実際、人類はアートマという神の愛で結ばれた一つの家族なのです。魂の観点からみるならば、本当の親は神であり、すべての人は兄弟姉妹なのです。これが、ヴェーダがとく不二一元論です。物質世界で生きる人間は、つねに自分と他人を比較して、二元性の中で生きています。しかし多様性の中の一体性の原理を理解して、すべてのなかに神を見る訓練をしていくならば、一体性の感覚を自分の思いと言葉と行いに反映させていけるようになり、各自にそなわっている内なる神性が、外側にあらわれでるようになります。
一人ひとりの内なるアートマは唯一なる神と一つに結びついていて、アートマを持っているということは、人間は常に神と共にあるということなのです。しかしそれは、人間の肉眼では認識できません。霊魂、すなわち魂のなかに隠された神性アートマが肉体という衣装をまとうとき、マーヤー(幻影)が厚いカーテンのように人間の目を覆い、目が真実を見ることを妨げます。霊的世界も神も実在しているのですが、そのすべてがマーヤー(幻影)というベールに覆われていて肉眼では見えないのです。霊性の真理を探求してエゴを克服し、マーヤーというベールがはがされたとき、内なる眼(英知の眼・霊眼・第三の眼)によって真理を認識し神を体験するのです。
神の化身は、マーヤー(幻影)についてこう語りました。
「神と森羅万象の間には、幻影と呼ばれるマーヤーがあります。生々流転のこの世が真実であるとする幻想は、マーヤーによって創り出されました。マーヤー(幻力)によって、宇宙・自然界・物質界が生じたのです。現象世界プラクリティはスクリーンのようなもので、向こう側の真の世界(霊的世界)をおおい隠しています。マーヤーによって生じた目に見えるものはすべて非実在、非真であり、常に移り変わり、永続しない束の間の無常の世界です。真理の世界(霊的世界)を見ることを妨げているのは、まさにマーヤー(幻影)という覆いなのです。マーヤーによって生じた物質的世界は永続するものではなく、永遠に続く世界は物質的世界の背後にある霊的世界です。この霊的世界だけが実在であり、永遠不滅の世界なのです。マーヤー(幻影、迷妄)によって、この生々流転の世を真実であるとする幻想が生じています。人間は自分の実体である真の自己アートマを知ろうとはしない。そのためマーヤーの迷妄の中にあり、物質世界は真実で永続的であると思い込んでいます。そして真なる実在(神)を無視するようになります。これが最大の障害です。これが克服されるまで、悲しみは避けられません。なぜなら人間はこの無知によって、鈍性タマス、非真、そして死と結びついているからです。物質世界はせいぜい試練として差し出された心像です。目には見えない霊的世界が真であり、目に見える物的世界は非真であって、マーヤー(迷妄)によって生じた幻影にすぎません。目に見えるものの背後に、本当の真理が隠れているのです。すべてのものの内に神は内在し、一切は『一なる神』のあらわれであり、多様な現象世界はマーヤーによって生じた幻影のごときものなのです。物質世界はマーヤーによって鏡に映し出された幻影のようなものであって、それゆえこの世のものはすべて儚く、常に移り変わり、永続するものは一つとしてありません。この世は無常であり、この世のものは永続しません。肉体もいつかは必ず滅びます。しかし、人間の魂の中の神性を有する真の自己アートマは永遠不滅です。動物には外部視覚しかありませんが、人間は肉眼のほかに内的視覚という能力をもっています。それは英知の眼・第三の眼・霊眼などと呼ばれています。二元性を超えて一体性を認識することによって内なる眼が開かれ、真理を観ることが可能になります。人間は内なる眼で、心臓の奥深くに内在している神性アートマを認識できる能力を秘めているのです。暗いマーヤーの煙は人々の眼を固くおおい隠し、神性を認めることを不可能にしています。マーヤーが神を見えなくしているのです。マーヤーの性質は実在を隠し、非真のように見せかけます。マーヤーは存在しないものを存在するように感じさせ、水なきところに水があるように見せ、自分の想像、自分の欲望を真理であるかのように思い込ませます。人が欲望を去り、想像したりはかりごとをめぐらすのを止めれば、マーヤーという幻によって迷わされることはなくなります。欲望は嵐であり、むさぼりは逆巻く水の流れであり、傲慢は絶壁であり、執着は雪崩であり、我欲は火山のようなものです。欲望を捨てれば感覚を超越して、解脱を得ます。人が心を浄めてエゴを取り除き、マーヤーを除去することができたとき、そのマーヤーのベールが剥がれ、アートマを認識して神に到達することができるのです。
物質界は霊界の移写であるから、霊界をすてておいて物質界のみ論じようとするのは、幹を忘れて枝葉を説くようなものです。五つの鞘で構成されている人体は、霊を入れる容器のようになっていて、いろいろの場合に、いろいろの霊がかかってきて、いろいろのことを思わせたり、させたりするのです。人間の心(マインド)というものは実にくるくると変わるもので、あるときは自分ながら神かと思うばかり高潔清廉な心境のときもあり、ときによっては自分ながら愛想がつきるほどいやな狭い卑劣な考えに振り回されているときもあります。いわば人間の肉体は一つの生きている管です。その中を霊が流れているのです。この管を清浄にして、神の恩寵がはたらくよう聖霊の霊流をわれとわが手で妨げぬように注意しなければなりません。五つの鞘をもつ人間の肉体は霊の容器であって、守護霊が代わったり精霊が交代したりもします。また浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマスの混合状態にある場合もあり、この三つのグナの混合の割合も時によっていろいろです。時にはサットワ優勢でラジャスとタマスを制し、時にはラジャス優勢でサットワとタマスを抑え、時にはタマス優勢でサットワとラジャスを支配する。このようにして三つの性質(グナ)は常に競争しています。ゆえに、人間は自分の感覚を制御してこの三つのグナ(鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワ)を振り捨てなければなりません。感覚器官は、現象世界プラクリティの中に存在する三つのグナの作用を受けて、善悪はすべて自分自身の中から生じているのです。この三性質(グナ)の配合がほぼバランスよく混じりあっているならば、人間の本性が目に見えて大きく変化することはありませんが、この三性質(グナ)の配合が乱れたり、そのうちの一つが突出しだして自己主張をはじめると、目に見える激しい変化が自分に起こるのです。それらの霊は、地上に生きている人間の心のかまえ方相応に引き寄せられ、どんな霊を引き寄せたかによってその人の気分も変わり、またその人の周囲から受ける環境や待遇もガラリと変わります。ゆえに人はあくまでも神を敬い、それぞれに努力精進して神の容れものとなって、大いに宇宙完成のためにはたらかねばなりません。本来、肉体は神の生き宮であり、人間は宇宙完成のための道具なのです。
真に神を慕っている者たちだけが、マーヤー、すなわちマインド(エゴ)を征服することができます。わたしたちが常に神を憶念し、神への信愛を深め、神との間に友情を築けば、三つのグナがすべて離れてしまいます。すなわちエゴが消えるのです。神への想いと、神に対する熱烈な愛だけが平安をもたらします。世俗的な想念が減少するにしたがって、神への想いが増します。欲望が一つひとつ取り除かれるにしたがって、平安が強められていきます。グナが住みつくマインドは欲望のクモの巣のようなもので、そこには平安はありません。欲望が一つひとつ無くなっていけば、思考と衝動の束であるマインドが消滅します。そうすれば平安が得られます。マインド(心)は欲望です。マインドが消えれば欲望は消えるのです。
あなた自身が平安を得るための努力をする必要があります。自分の行いのすべてを神に捧げる想いをもって、自分の為すべき仕事を神の御名においてただひたすら誠実に行い、その行いの結果はすべて神に全託することです。行為の成果を求ず、行いの結果を神にゆだねるならば、カルマによる束縛をうけることはありません。このようにすれば、エゴは養分を与えられることも育てられることもないので、まもなく消滅します。全託とは、神の御名においてすべての行為を行うということだけではありません。神への全託とは、全宇宙が神の身体であると認識された状態です。
この世には、因果律(因果応報・カルマの法則・原因と結果の法則)がはたらいており、前生と今生で蒔いた行為と思いの結果が善因善果・悪因悪果となってあらわれます。心を浄め、無私となって善行を積みなさい。常に神を思い起こし、仕事や社会生活のすべてを神に捧げる思いをもって行うことが、自分を善へと導くのです。自分が期待する仕事の成果を求めずに、神の御名においてただひたすら誠実に仕事をするならば、エゴが入り込む隙間はなくなります。マーヤーという幻力によって生じた幻の影が、ブッディ(識別する英知)を覆うことがないよう、『エゴを消す』という霊性修行を深めなさい。そして神に向かって前進しなさい。神を憶念して神の御名を唱え、あらゆる行為を神に捧げる思いをもって、神の御名においてすべての行いを為すならば、エゴの介入する余地はなくなります。それがエゴを鎮静化させるための最も手早い方法なのです。霊性修行によってグナの束縛から解放され、ひとたび神は自分の中にいると信じれば、心は不動に保たれます。ひとたび心が不動になれば、もうマントラを唱えたり、神の御名を唱えたりする必要はありません。完全な心の沈黙を実践しなさい。『沈黙は金なり』です」
この現象世界プラクリティには、人間の目には見えない三つの性質(グナ)が存在していて、人間を束縛します。その三つのグナとは、浄性サットワと激性ラジャスと鈍性タマスです。人体は食物鞘と呼ばれる肉体だけではなく、生気鞘(エーテル体)、心の鞘(アストラル体)、理智鞘(メンタル体)、歓喜鞘(霊体、魂)という五つの鞘、五つの体で構成されています。この五つの鞘をもつ人体は、霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級霊や低級霊を入れることができる容器のようになっています。ヴェーダでは、人の感覚から侵入して心の鞘(マインド)に住みつく霊を、その性質に応じて浄性サットワ、激性ラジャス、鈍性タマスの三つの性質(グナ)に分類しています。人間はこの三つのグナの影響を受けて、自分の性格の中に浄性、激性、鈍性の三性質を持っています。人の心の鞘(マインド)はグナの住みかになっていて、その三つのグナの配合割合は人によって異なりますが、どの性質(グナ)が優勢かは、前世から持ち越してきた潜在的性向(ヴァーサナ)によります。すべての人は、このグナによって否応なく行為させられているのです。外部から人間の感覚をとおして侵入してきたグナは、人間のマインドに住みつき、人間を操ります。グナはそれぞれの性質に応じて、人間を神性から引きずりおろそうとするのです。激性ラジャスや鈍性タマスは否定的な感情をもった人間たちの波動に引き寄せられ、その人間のエゴや恐怖感をさらに増幅して心を不安定にします。ラジャスとタマスのエゴを人間が自分のものとして受け入れてしまうと、精神は乱れ、周囲との調和もとれなくなります。感覚器官の奴隷になっている心(マインド)を、救わなくてはなりません。心(マインド)は、識別するはたらきをもつブッディ(英知)に管理され指示されれば、神聖な道具となります。ブッディという燃え盛る太陽によって、すべての悪い感情を蒸留しなければなりません。人間の内なる神性を覆い隠しているのは、まさにグナの住みつくマインド、すなわちエゴです。人間は自分の内面を見つめて、鈍性を破壊し、激性を改善して浄性を育てなくてはなりません。この心の鞘(マインド)で湧き上がった混乱だらけの感情や衝動を乗り越えるためには、理智鞘にある英知ブッディ(識別力)を用いてその思いが正しいか間違っているか、純粋なものか汚れたものかを、まず最初に調べ吟味する必要があります。たくさんの欲望をもっているグナはマインドに住みつき、執着させて人間を操ります。グナの奴隷のようになっているマインドで生じた思いを、精査のためにブッディに差し出し、内なる英知ブッディの裁定に従って行動するよう訓練していくならば、マインドは浄められ、ハートにある神性意識(良心)によって善へと導かれます。感覚が悦楽にとらわれて貪欲に何かを欲しがるとき、神を思い起こして、「私がしたがっているこの行為は、内在の神の御心にかなうことだろうか?」この問いかけにより、人は低劣な行動におちいることはなくなっていきます。こうして感官に向いている心(マインド)を、内なる神の方へと向けて、内なる神に信頼を置くようになると、ハートの扉が開き、理智鞘の最も奥にある英知ブッディ(識別力)をとおしてハートの中の神性意識(良心)がはたらくようになります。すると、識別して行動する力(英知ブッディ)が活動を始めるのです。内なる神がはたらくようになるためには、感覚をとおして欲望に執着しているマインドを、神の方へと向けなければなりません。感官に向いているマインドを神の方に向けるとは、つねに神を思い起こすということです。神を憶念し、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すならば、グナの束縛、すなわちエゴの支配から自分を解放するための助けになります。真に神を慕っている者たちだけが、神性を覆い隠しているマーヤー(幻影)、すなわちマインドにあるエゴを征服することができます。常に神を憶念し、神への信愛を深め、神との間に友情を築けば、三つのグナがすべて離れてしまいます。すべての人の内に自分とまったく同じアートマ(内在の神)が住み、すべての人が等しく神性をそなえていることを認めて、すべての人の中に神を見る訓練をしていくならば、一体性の感覚が培われていきます。実際すべての人の内なるアートマは、肉体意識を超えた聖域で一つに結ばれ一体になっています。人類は、アートマという神の愛で結ばれた一つの家族なのです。この一体性の感覚を自分の思いと言葉と行いに反映させていけるようになれば、相手に対する思いやりが自然に育まれ、内なる神性が外側に輝きでるようになります。グナの住み家であるマインドは欲望のクモの巣のようなもので、そこには心の平安はまったくありません。心(マインド)の汚れは、神様という洗濯屋の助けを借りてきれいにせねばなりません。社会的生活は、精神との調和がとれていなければ乱れていきます。ゆえに何をしていようとも、「内なる神アートマ」を決して忘れてはなりません。
私たちは今は、マインドやエゴは自分の味方だという感覚にとらわれているけれど、ほんとうはどちらも私たちを惑わせ、神性アートマから遠ざけようとするのです。悪質な側面をもつグナは、マインドに住みついて人間の欲望を増やし、執着させてエゴを膨らませます。でもそれは私たちの側にも問題があるのです。自分の感覚を野放しにして、感覚の抑制と心のコントロールに努めていないため、悪を引き寄せてしまうのです。心を正しく管理する責任は自分たちにあります。単にグナのせいにしてはいけません。私たちの導き手は私たちの内にあり、私たちの本当の師は、各自に内在しているアートマなのだけれど、今は偽物の師であるマインドやエゴなどに操られ、見当違いの方向へ連れて行かれてしまっているのです。惑わしているだけではなく、マーヤー(幻影)という覆いをかぶせて真理(神)を見えなくしてしまっています。エゴが死んでしまわないと、内面の真理を覚ることはできません。だからこの事実に気づいて、マインドとエゴの小さい殻を割って、真我アートマが輝き出てくるようにしなければなりません。そのためには「私」「私のもの」、つまりエゴは溶けて消える必要があります。自分の小さい自我が消え、内なる真の自己アートマと完全に同一化されたとき、神と一つになります。これが完全な一体性です。それは、マインド(頭)を使うのではなく、愛(プレーマ)によって、つまりハート(心臓の空洞)にある良心を通してこそ可能です。グナのたまり場であるマインド(頭)は欲望のクモの巣のようなものです。そこには心の平安はまったくありません。心臓の空洞にある良心と呼ばれるハートは、完全なる純粋意識(神性意識)です。そのハートの中に神アートマが内在しています。神の住む真の神殿は、人間のハートの中なのです。グナの束縛によって外界のあらゆることに執着しているマインドが神の方を向き、感覚を抑制してエゴを滅していくならば、ハートの扉が開き、ハートにある良心と呼ばれる純粋意識(神性意識)がはたらくようになるのです。
では、そのためにはどんな実践が必要となるのでしょうか。神の化身はこう教えます。
「マインドに断食させなさい。マインド(頭)に想念をあげるのをやめるということです。グナのたまり場であるマインド(頭)から出てくるものはすべて世俗的なもので、ハートから出てくるものが慈悲、親切、犠牲という良心なのです。思考と衝動の束であるマインド(頭)を閉じて無心になったとき、真理の扉であるハートの扉が開いて、良心によって活動を始めるようになるのです。グナの住み家、つまりエゴの指定席はマインド(頭)で、ハートという住み家にはないのです。だから聖者は、マインド(頭)に住むのをやめている。聖者は、マインド(頭)に世間の想念を食べさせるのを止めている。エゴがいったん餌を食べられなくなると、マインド(頭)はその習慣的で自動的な働きを停止します。エゴがなく「ノー・マインド」であれば、乱されることもなく、平安の中に無上の幸福を感じることができるのです。マインドこそ、すべての苦しみの原因です。私たちはグナのたまり場であるマインドに欲望や想念という食べ物を与え続けているので、これが習慣になってマインドは、欲望や想念をすぐれた食べ物だと思うようになります。これは取り除くべき習慣なのです。この欲望や想念という食べ物は、あとで胃痛をおこすと知らないといけません。マインドは、想念と欲望という食べ物は危険であって、それよりもっとおいしくて体にいい食べ物があると知る必要があります。霊性修行が、一番おいしくて栄養のある食べ物です。一度これを味わったら、マインドに神の御名とマントラを唱えることや瞑想などの霊的修行を定期的にあたえはじめなさい。幾多の過去生で行ったあやまちを今生で焼却するのだと決意して、マインドに世俗的な想念と欲望をあたえるのをやめなさい。人は自分の感覚を野放しにして、エゴにエサをやることことばかりに夢中になって、真我アートマを知りたいとは決して思わないのです。真我アートマを知るためには、エゴ、すなわちグナを飢えさせなければならない。アートマを覚るためには、思考と衝動の束であるマインドは溶けて消え去らなくてはならない。マインドが存在している限り、人はエゴを増幅させるグナに支配されつづけます。もしもあまりにも自分のマインドの言いなりになって、マインドを適切にコントロールすることができなくなれば、心の安定を失い、気が狂ってしまうこともあるのです。マインドはエゴであって、エゴは人をとても自己中心的にします。肉体の自分ではなく、魂の中にある真の自己アートマに中心を置かなくてはならない。そうなるためには、マインドは消滅し、エゴは死ななければならないのです。そのときはじめて、人は観照者(みているもの)の境地の中に確立することができるようになります。観照者となって自分の真我アートマの中にとどまり、起こることすべてを単に見つめていなさい。観照者の境地というのは、マインドやその思考に邪魔されずにただ起こることを見ているだけで、常に執着がなく、影響を受けない境地のことです。その境地においては、あなたはいつも自分の本質である真我アートマの中に留まって、すべてをただ観ている。執着もなければ巻き込まれることもない。観ることだけが在る。自分自身の思考のはたらきを意識的に観察しながらも、考えることはしない。じっとしていて、何にも動かされず影響されず、ただ見ていて楽しんでいる。それが観照者という至高の境地です。マインドは思考の束で、考えたり、疑ったりしかできず、そしてしがみつくことしかできない。マインドは世の中で最も騒がしい場所。マインドは観ていることができない。思考のはたらきはマインドのものだけれど、観ているということは真我アートマに属すること。観ているとは、純粋意識(神意識)の中に留まっている境地のこと。意識だけが本物。マインドや心の考えることは、実体のない自分で創りあげた虚構で本当のものではない。考えることは、あなたたちにとっては自然なことに思えるかもしれないけれど、本当は自然なことではない。考えることは、本当のあなたの一部ではない。思いは三つのグナ(鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワ)の影響を受けて生じている。マインドによってもたらされる考えやエゴは、絶え間ない興奮しか生まない。マインドによってもたらされる思いはもともとあなたのものではないから、取り除かれないかぎり、あなたはいつまでも休みなく落ち着かない。観照というのは、完全に意識しながらただ観ている境地のこと。それとは逆に、心や思いが自分だと思っているときには意識は眠っていて、純粋意識(神意識)からはるか遠く離れている。観照しているときには、あなたは完全に意識をもっている。観照者の内にあるのは、意識だけ。今の段階では、あなたたちは意識のないまま人生を送っている。あなたたちは自分は歩いて、食べて、息をして、物を見たりしているのだからはっきり目覚めていて、自分にはちゃんと意識があると思っている。だから意識がないといわれて不思議に思うかもしれない。しかし、一日にいったい何回、自分の手や足を、自分の舌を、自分の口や呼吸を本当に意識していますか?食べているときでさえ、食べている手や、口の中の舌に気づいていない。そして歩いていても、自分の足をまったく意識していない。それに、意識して呼吸していますか? 自分の目を使って周りを見まわしたり、目の前にある様々な美しいものや醜いものを観察するとき、その目を意識していますか?いや、まったく意識していない。いろんなことをしていても、無意識にしている。無意識の人生を送っている。今のあなたたちの状態は、すべてが知らないうちに起こっていて、怒りなどの悪い感情も無意識に湧き上がり、あなたはまるで思考や感情に無意識のうちにあやつられるままになって、その中でぐっすりと眠りこけているかのように、ただ押し流されている。たいていの人は意識が曇ってしまっていて、無意識の世界に生きている。本当の霊性は、完全に意識をもっている。だがほとんどの人は、何をするにも無意識に行っている。意識的であるためには、心を静め落ち着いている必要がある。マインド(頭)にがんじがらめにされている状態から解放されるようにならないかぎり、くつろぎはやってこない。しかしあなたたちは肉体が自分であると勘違いしているため、怒りなどの感情を自分と同化させてしまう。この肉体は本当の自分ではなく、その最奥に真の自己アートマが潜んでいることを認識して、肉体はアートマを覚るための道具にすぎないことを理解するならば、あなたはどんな感覚でもただ観ていることができるようになる。その意識は、自分の肉体に起こっていることに超然となり、まわりで起きていることに同化しない。あなたはただ傍観者でいるだけになる。肉体と自分を同一視する気持ちを振り落とし、身体を超越し、眠りから覚めて意識を取り戻しなさい。どんな行為でも意識が伴えば瞑想になるからです。あなたの内なる純粋意識、すなわち真我アートマの中に確立して、完全に意識をもってはっきりと目覚めていなさい。するとやがて周りで起こる出来事や心の感情などにとらわれることなく、心を離して観ている境地に達する。観照者(みているもの)の至高の境地の中では、あらゆることが起こりつつも、しかし観照者は巻き込まれることがない。アートマの内に中心を置く者はつねに目覚めていて、完全に意識がある。ひとたびエゴを超越できればあなたは無になり、神意識に満ちた完全な空になる。あらゆる存在に向かって謙虚の念を持ちながら常に頭を下げる態度があるとき、あらゆる存在があなたの中に流れ入ってくる。そしてあなたはすべてのものは自分の一部であり、自分でないものは一つもないことを体得する。あらゆる物や人と自分が一体化するとき、すべての人、すべての物を等しく愛し、敬意をはらい、大切にするようになる。大空にある雲がただ通り過ぎてゆくように、あなたの湧き上がった想いをただ眺めていなさい。観照しているときには、あなたは完全に意識をもっている。観照者の内にあるのは、意識だけ。だから、目を覚まして、意識をもちなさい。観照者として観ていることが可能になるのは、心が落ち着いていて静かなときだけ。あなたに執着がないときだけです。執着しているときには、観照は起こりえない。観照者の中に確立することは、人生の真の目的です。観照という至高の境地を中心に、その周りをあらゆる生命や宇宙全体が回っている。ひとたび、観照者として真我アートマの中心に確立したら、何をするにも、その中心から一ミリも動かずに行うことができる。この外界の問題すべての真っただ中にいながら、あなたは起こることすべて、なすことすべてに対して、観照者であり続ける。そして内面では、完全に静かで波一つない。観照者の境地の中に確立した人は、どんな状況のもとにあっても、内面は触れられず乱されない。心(マインド)はマイナスのエネルギーからできている。思いはマイナスのエネルギー、過去もマイナスのエネルギー。怒りや憎しみや復讐心などの否定的な感情のせいで、マイナスのエネルギーをおびて心が曇ってしまうと、アートマから離れてしまい、いわゆる意識は眠った状態になる。すると、観るということができなくなる。マイナスのエネルギーが支配的になると、意識はあまりなくなって、したがって観ていることもできなくなる。観ていることが可能になるのは、あなたに執着がなく、心が落ち着いていて静かなときだけ。観照者になるとは、本当に目を覚まして自分の内面や外界で起こることすべてを意識するようになること。この至高の観照の境地では、あなたはすべての物事の中心、つまりすべての物事のまさに生命力(霊的エネルギー)になって、あらゆる変化が生じてくるのをただ観ている。あなたは至高なる神意識と一つになっているので、周りの変化には決して影響されない。観照の境地では、あなたは至高の宇宙エネルギーと一つになっている。自分の本来の姿がアートマだとわかったとき、あなたは執着を離れて人格をもたない観照者になって、すべてのものを完全な意識の中で目撃し、生き物も、人生のいかなる状況も、すべての現象のさまざまな形は、すべて同じ材料である『至高の真我パラマートマ』からできているいるということがわかる。すなわち、すべてのものにパラマートマが内在しているのです。思考や物質に執着する心は、真我アートマから離れていってしまうので観ていることができず、『私』『私のもの』にしか関心がない。観ているときには『私』『私のもの』という感覚はなく、卑小な考えをすべて超越している。観ているためには、無執着の至高の境地の中に確立しなければならない。何事に対しても観ている人になったとき、もはや主張することは何もなくなる。そのとき、神意識と一つになっている。ただ目撃し、ただ観照している。ひとたびその境地の中に確立すれば、何ものからも傷つけられたり影響されたりしなくなる。心からは距離をおいて、身体を自分であると思い込むことももうなくなる。観照は、あなたが完全に心や思考のはたらきから離れたときのみ、起こる。心の中に考えが浮かんできて、その思いがどのようにはたらいて、そして消え去っていくのか、あなたがひとたび思いをはっきりとみることができるようになれば、その思いは無力になってしまう。自分自身と思いとが同一化してしまうと、思いにエネルギーが生まれ、それが極まるとついに行為となる。あなたに、思いは自分であると同一視することがなければ、思いにはエネルギーがなくなり、弱く不活発になる。思いを見つめて、思いと同一化しないでいるとき、あなたは思いを観ている。観ているときには考えていない、つまりどんな考えとも同一化していない。
怒りや肉欲や恐怖などの感情に一体化(同化)している限り、あなたはそれらをコントロールすることはできません。感覚から侵入してきた思いをあなたは自分の思いだと信じるけれど、実際にはその思いと自分を同一化しているだけで、それはあなた自身の思いではないのです。三つのグナの影響を受けているのです。だから怒りが表れたら、ただそれを眺める。大空の中で雲が通り過ぎて行くのをただ眺めているのと同じように、湧いてきた思いをただじっと眺めていると、通り過ぎる雲のようにその思いは消えていく。別個の観察者としてただ眺めることによって、あなたは自分の中のこだわりを解き放つことができるようになる。自分の心の動きを第三者のように見つめる作業を通して自分の思いを調べ、観察してただ眺めていなさい。このように心(マインド)は見つめられ調べられると消えていく。心(マインド)は縦糸と横糸で織られている布のようなもので、一本一本の糸が欲望や執着であり、心(マインド)が布なのです。欲望と執着の糸を一本一本抜いてしまえば、布すなわち心(マインド)はなくなる。綿がマーヤー(幻影)です。布が糸の束であるように、マインド(頭)は思考の束です。糸を取り除いてしまえば布はなくなるように、思考を取り除いてしまえばグナのたまり場であったマインドは無くなり、不安や心配や恐怖感は消え去ってしまうのです。
感覚を野放しにしているとき、そこにはあなたの意識はなく、無意識にマインドの思いのすべてを受け入れてしまう。感覚から侵入してきた思いと自分を同一化していると、その思いは自分の中に根をおろすことになる。そうならないために、思いを意識して観察し、ただ眺めていればいい。神は「観ている意識」なので、まわりの状況からまったく影響されない。人間は自分自身の悩みと同一化しすぎているから、自分自身を分析したり自分に助言をあたえることが十分にできなくなる。良いことも悪いことも体験のすべてをただ観ているだけなら、その状況から距離をおいて、あらゆるものを真我アートマとして観る境地をつくりだす。自分の内や外で起こるすべてのことをただ観ているだけなら、それに執着はしない。人は執着によって転落し、無執着によって向上する。無執着とは、傍観の立場をとって、ただ自分の義務を神の御名において誠実に行い、その行為の結果に無関心でいることです。自分が期待するとおりの結果になることを求めてはならない。行為の結果に執着せず、すべての行いを神に捧げ、その行為の結果は神にゆだねなさい。行為の結果に執着してしてはなりません。自分の仕事のすべてを神に捧げ、自分の義務を神の御名において誠実に行うだけです。自分が期待する仕事の成果を求めずに、神の御名においてただひたすら誠実に仕事をするならば、エゴが入り込む隙間はなくなる。神の御名を繰り返し唱え、あらゆる行為を神に捧げる思いをもって為すならば、エゴの介入する余地はありません。それがエゴを鎮静化させるための最も手早い方法なのです。
自分のカルマの結果、グナを引き寄せ、そのエゴがそれぞれ仕切りをつくって、神の霊流を妨げている。エゴは部分部分の輪郭を形づくる壁のようなもの。だからエゴを取り除きなさい。そうすればあなたは再び空間になる。神は形ではなく空間そのものだから、何でも入れることができる。すべてがその空間に収まり、それでもその空間には、空きがたくさんある。そこは無限の空間、無尽蔵の空間である。神の霊流を妨げないようにするために、感覚の抑制に取り組み、エゴによってつくられた壁を取り除きなさい。エゴがつくった仕切りを取り除き、あなたの内面のすき間をもっともっと大きくして神が入っていけるようにすれば、時が来て、神はエゴが押し出されるように取り計らって、あなたのハート全体は神だけでいっぱいになるのです。
霊性の道にしたがうつもりもなく、怠けて、マーヤー(幻影)に浸ってその網にかかっていれば、まわりの外界や肉体よりも高次な領域があることに気づけません。霊性修行を通して、マインドがいっそう一点に集中されてくると、想念の波が徐々にひいていきます。想念は、自分の心とただ一つの宇宙的意識のあいだにはだかる壁のようなものです。壁で仕切られているふたつの部屋ともいえます。壁を取り壊して除けば、部屋はひとつです。純粋無垢な愛には壁はありません。想念の壁は愛によって消えます。愛をいだく者の心は、わが愛する神の意識とひとつになります。無私の愛(プレーマ)になると、ただわが愛する神と一つになりたいという欲求だけです。そして、絶えず神を想いつづけるようになります。最愛の神に溶け込むと、マインドははたらきを止め、『私』『私のもの』というエゴは消えます。感覚器官を通してほとばしる感覚の悦びをマインドに与えることも自動的に止まります。霊性浄化の絶え間ない流れが、あなたのなかで起きます。最愛の神を絶え間なく想い、そうして神と一つになります。多様性というものが終わり、唯一なる神だけが存在していることを認識します。すべては、一なる神のあらわれなのです。あなたの人生に霊性修業を取り入れて、マインドを精妙にしなさい。集中を通してのみマインドを精妙にできます。マインドが完全に至高の普遍原理(神)に集中し、雑念の波がすべて静まればいいわけです。するとそこでは、マインドは雲一つない青天のようにひろがり、広大になっています。
瞑想のとき、ハートが最愛の神の御姿で満たされていると思い描いて、マインドをさまよわせないようにしなさい。瞑想に神の御姿、あるいは神の象徴である「光(ジョーティ)」を用いることは、一点に集中することを助けます。どの神の御姿を瞑想しても、それは自分の真の自己アートマにつながります。つまりどんな神の御姿を瞑想したとしても、実際にはあなた自身の真の自己アートマを瞑想しているのです。
人間はサムスカーラ(過去の行為と思いから蓄積された精神的な傾向)が個別にあるため、それぞれが世の中を見て判断するのは、ヴァーサナ(前世の体験から蓄積された潜在的性癖や習慣)というメガネを通してです。そのメガネの色は、前世から持ち越してきた心の傾向によって異なりますが、みな例外なくヴァーサナが偏りすぎているので、自分の判断が正しいと思います。それも自分の判断だけが正しいと思っています。もしあなたが誰かをあざけったとしたら、今度はあなたがいつか別の人からあざむかれるという真理を、覚えておきなさい。この世には、因果律(因果応報・カルマの法則・原因と結果の法則)が、数学的正確さをもってはたらいています。誰もが、幾多の過去生において自分が行った行為の結果を経験しなければなりません。ある種の悲しい出来事、あるいは不幸な出来事に見舞われたとき、そこから教訓を学ぶだけはでなく、それは神へより一層近づくための機会なのです。
神の恩恵なしでは自分は完全に無力な生き物であると認識できたとき、はじめて人は謙虚にかしこまることができるのです。この謙虚さこそが、カルマによって前世の体験から蓄積されてきた潜在的性向(ヴァーサナ)をなくす真の方法です。カルマの法則がはたらく実社会において自分の無力さを感じ、全知全能なる神への思いが芽生えたとき、人は謙虚になるのです。この謙虚さは、自分が神の恩寵や人から愛を受けとることにプラスに結びつきます。心(マインド)を欲望へと引き寄せ執着させるグナの邪悪な力、すなわちエゴが消滅し、あらゆる執着から解放されて自由になることが、解脱です。愛(プレーマ)は、あなたがたを解放へと導くことのできる唯一の道です。愛(プレーマ)は、解放と一体性への道です。愛のある者を、神は見捨てておくことはできないのです。愛(プレーマ)こそが、すべてを可能にする偉大な力です。神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」
ラーマとラクシュマナは、師ヴィシュワーミトラにしたがって、さらに深い森の中へと進んで行きました。どこを見ても野獣が歩き回り、不気味な物音が四方八方から聞こえました。ラーマはこの人跡未踏の恐ろしげな森を見て、「ああ、なんと近づきがたい森でしょう。師よ、この森はなぜこんなに暗く恐ろしいのですか。ここは樹木と蔓の生い茂った未開の荒野で、獣だけしか住んでいないようですが、まことに恐ろしい森です」と語ると、ヴィシュワーミトラは昔の出来事をラーマに話しました。
「ラーマよ、昔はここは美しい国で幾つもの都が栄え、よく耕された田畑もあって、住民は平和に五穀豊穣を享受していたのだ。ところがある日、百頭の象に匹敵する力を持つ女羅刹タータキーがやって来て、人間を神性から引きずりおろし、この地を荒れ果てるまで破壊してしまったのだ。わしの庵のあるシッダーシュラマも悪鬼タータキーに悩まされてきた。ラーマよ、そなたは人間を神性から引きずりおろそうとする悪魔のエゴを滅ぼして、この地を悪の力から解き放つことができる。」
ヤグニャ(供犠)の警護のために、ヴィシュワーミトラはラーマとラクシュマナに太陽礼拝の奥義を説き、天の啓示により授けられたマントラを伝授することにしました。ラーマはアヴァター(神の化身)なので全てに精通しており、マントラを教える必要がないにもかかわらず、ラーマと共に森を通って行く途中、ヴィシュワーミトラ自身がマーヤー(迷妄)にさらされました。ヴィシュワーミトラは、ダシャラタ王に息子のラーマは神の化身にほかならない、ときっぱり明言したにもかかわらず、まるでラーマがふつうの王子であるかのようにマントラを教えるという選択をしました。このとき、ヴィシュワーミトラは完全に神を忘れてしまっていたのです。シュラッダの意識が欠けて神を忘れると、識別力がはたらかなくなるのです。すると油断した隙をねらって、マーヤーは人を巧みに惑わすのです。人間は五つの鞘(五つの体)で構成されていて、その4つ目の理智鞘のなかに識別力があります。神は人間に内在する識別力を通じてはたらくのですが、神が忘れ去られてマーヤーの網にかかると識別力が失われるのです。二人の少年にマントラを伝授したあとで、ヴィシュワーミトラはうかつにも神を忘れ、神の化身本人にマントラを教えた自分の浅はかさを悔やんだのでした。このようにヴィシュワーミトラのような卓越した聖者でさえ、解脱に到るまでは次から次へとマーヤーの波が押し寄せ、惑わされることが起こるのです。
マーヤーはマインドの一属性です。それゆえ常に神を思い起こし、シュラッダの意識をもって識別力をはたらかせなくてはなりません。「シュラッダ」には、細かいことへの気づき、油断なく注意深くという意味あいだけではなく、意識の要素が入っていなければなりません。つまり意識して神を思い起こし、信仰と愛のこもった注意深い気づかいをもつということです。なぜなら、どんな行為でも意識が伴えば瞑想になるからです。意識して「シュラッダ」のボタンを押せば、わたしたちの意識の明かりが灯るのです。アヴァター(神の化身)が降臨している時代には、アヴァターの話を聞き、その言葉を理解し、それを実践することがマントラなのです。
翌日、聖仙ヴィシュワーミトラのアシュラムがあるシッダーシュラマに向かいました。そこはかつてヴィシュヌ神の第五の化身によって聖化された土地で、涼しいそよ風とヴェーダを朗誦する声が境内を神聖な雰囲気で満たしていました。木立の間には多くの行者の庵が建っていて、行者たちは三人を快く迎え入れてくれました。
ヴィシュワーミトラは二人の兄弟を呼んで言いました。「わが子らよ、六日の間、食事や休息や睡眠を気にかけず、ヤグニャ(供犠)の儀式を守護する任務につかなければならない。このこと事態、あなたがたにとっての供犠となる。この供犠を聖化し、成功させるために最善を尽くさねばならぬ」
それを受けてラーマはこたえました。「父王から、師のお言葉に従うよう命じられております。それゆえ、このヤグニャ(供犠)を守護することはわたくしどもの義務であります」ラーマがそう語り終えると、ヴィシュワーミトラは感官を制御して準備を整えました。
「供犠」とは、一般的には神にいけにえを捧げ、神と人との関係を成立させるための宗教的儀式であると言われていますが、いけにえを捧げるとうことの本来の意味は、人間の中に宿っている動物的マインドを神の前に差し出し放棄するということなのです。神の御名と神の栄光を瞑想しながら神を礼拝することも、内的ヤグニャ(供犠)の一つの形態です。供犠に際して、供物として捧げられなければならないものは、人間の中に宿っている動物的マインドなのです。これが内なるヤグニャ(供犠)の意味であり、外的なヤグニャはその反映にほかなりません。ダルマの原則と一致する行いはすべてヤグニャ(供犠)の神聖な儀式に値します。ヤグニャ(供犠)は捨離の実践であり、神への捧げ物として行われる行為はすべてヤグニャ(供犠)です。エゴがなく、行為の目的が万人にとって善いものであるとき、その行為は確実にヤグニャ(供犠)です。執着から離れ、すべての行為を神の御名において誠実に行い、自分の期待する行為の結果を捨ててすべてを神にゆだねることが、真の捨離です。人は行動を起こすとき、自分が望むとおりの成果を期待しますが、それも執着です。成果を求めず、結果はすべて神にゆだねて、自分がなすべき仕事を誠実に実行していくだけです。人の誠実な努力をみて、行為の果報を贈ってくれるのは神なのです。
夜が明けると偉大なヤグニャ(供犠)がはじまりました。そのとき聖者の一人がラーマ兄弟にいいました。「偉大な供犠が行われるのをかぎつけて、悪魔の大軍が近づいています。気をつけてください」
ヴェーダの朗誦がはじまると、ラーマとラクシュマナは油断なく警戒にあたり、自らもマントラを唱え続け、疲れも困難も弱ささえも見せず、その任に耐えました。
悪魔軍団の大将である女羅刹タータキーは完全にエゴの罠にはまっていました。エゴは傷ついたとき、即座に怒りという反応をとるのです。悪鬼タータキーは激しい怒りと憎しみをあらわにしながら石の雨を降らせ、ラーマに立ち向かってきました。ラクシュマナは矢を放ち、石の連発を食い止めました。ラーマはこのとき、人間を神性から引きずりおろそうとするエゴを切除するために、神威を引き出す天上の智慧マーナサアシュトラ(心の矢)を用いました。それは、外科医が患者のために悪性の腫瘍を切除するときに用いるメスと同様の手法でした。人間を神性から引きずりおろそうとするエゴだけを切除したのです。ラーマは憎しみから戦ったのではありません。タータキーの中にあるエゴを破壊し、タータキーの罪を正すという義務ゆえに戦ったのでした。ラーマの武器は、まさに真理と英知です。それは邪悪な性質と煩悩を打ち破る天上の光輝です。地上に平和をもたらすためには、世界に潜む危険なエゴを破壊する必要がありました。ラーマは自分の大切な義務として、ダルマを維持するために社会にとって危険なエゴのみを破壊したのです。エゴを取り除くことは、覚りに至ったサットグル(真の霊性の師)の主要な仕事なのです。偉大なる神が肉体をまとってこの世に降臨された目的は、ダルマ(聖なる法)を再建して秩序と調和を取り戻し、この世界に愛と平和をもたらすことにあるのです。
ラーマにはひとかけらの憎しみも利己心もありません。人間の中の神性を侵し、この世から平和を奪う悪魔たちの悪い性質を破壊し、エゴを正すという義務がラーマにはあったのです。社会にとって有害なエゴを滅ぼすことは、ラーマの全世界に対するダルマでした。ラーマの愛により、彼らのエゴは正されなければならなかったのです。こうして二人は大切なヤグニャ(供犠)を悪魔たちの妨害から護り、魔手から解放されて再び神聖さを取り戻したこの地は、平和に包まれました。世界平和と世界の繁栄を願って行われるのが、真のヤグニャ(供犠)です。ラーマとラクシュマナは、師ヴィシュワーミトラから与えられた任務を完全な帰依の心で果たしたのです。
人間の感覚器官は、現象世界プラクリティの中に存在する三つのグナ(鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワ)の作用を受けて、善悪はすべて人間のマインド(頭)から生じています。この三つのグナの配合が、ほぼバランスよく混じりあっているならば、人間の本性が目に見えて大きく変化することはありませんが、この三つのグナの配合がどれかに大きく偏って、そのうちの一つが突出しだして自己主張をはじめると、目に見える激しい変化がその人に起こるのです。悪質な側面をもつグナは、マインドに住みついて人間のエゴを増やし膨らませます。でもそれは私たちの方にも問題があるのです。いつも感覚を野放しにして、自分の感覚の抑制と心のコントロールに努めていないから、悪を引き寄せてしまうのです。心を正しく管理する責任は自分たちにあるのです。単にグナのせいにしてはいけません。私たちの本当の師は、各自に内在しているアートマなのだけれど、今は偽物の師であるマインドやエゴなどに操られ、見当違いの方向へ連れて行かれてしまっているのです。
人間の身体のなかには神が内在していますが、グナのなかにはもう神は内在していません。しかし、神の中にはグナは存在しています。宇宙を含めたすべての存在が、とてつもなく広大な神の体のなかで生かされているのです。よって、グナの内にはもう神はいませんが、神の広大な体の中にはグナも存在しています。このグナもまた、いつかは神へと向かうことになるのです。
わたしたちが感覚を野放しにしていると、その感覚からグナが侵入してきて、グナは自分の欲望を満たそうとその人間を操ります。グナのたまり場であるマインドは欲望のクモの巣のようなもので、そこには平安はありません。心の平安とは、欲望のない状態であり、その状態では心は存在しません。いわば心(マインド)が消滅した状態です。あるのはハートという純粋意識(神性意識)のみです。わたしたちが妬みや憎しみをもっていると、その波動に引き寄せられて、グナはさらにその思いを強めます。グナは自分と似た波動をもつ人体にとりついて、彼らはそこを住み家としてしまいます。心を常に揺れ動くことなく、不変かつおだやかな状態に保ち、エゴをはたらかすことなく、常に無我無私の状態に保ったときのみ、神によって高次元の意識は出現するのです。自分の感覚を抑制せず、想念を野放しにしていると、自分だけではなく、家族にも社会にもその影響は広がります。自分の想念によって他に悪い影響を及ぼすことがないよう、自分の想念を管理することは、人間としての義務なのです。
わたしたちが神との間に友情を築けば、三つのグナがすべて離れてしまいます。すなわちエゴが消えるのです。神への想いと、神に対する熱烈な愛だけが平安をもたらします。神に向けられた愛は、神聖な愛です。それは世俗に向けられた愛着とは異なります。世俗的な想念が減少するにしたがって、神への想いが増します。欲望が一つひとつ取り除かれるにしたがって、平安が強められていきます。欲望が一つひとつ無くなっていけば、思考と衝動の束であるマインドが消滅します。そうすれば平安が得られます。グナのたまり場であるマインドは欲望でいっぱいです。あらゆるものに執着しています。マインド(頭)は欲望のクモの巣のようなもので、そこには心の平安はまったくありません。グナの住み家であるマインドが消えれば欲望は消えるのです。欲望は嵐であり、むさぼり(貪欲)は逆巻く水の流れであり、傲慢は絶壁であり、執着は雪崩であり、我欲は火山です。欲望を捨てれば、グナに束縛されているマインドはエゴや執着から解放されて感覚を超越し、真の自由(解脱)を得るのです。
ヴェーダに則ってヤグニャの儀式を終えると、神の化身ラーマは修行者たちに向かって「真理」について大切なことを語りました。
「神の体はとてつもなく広大で、宇宙を含むすべての存在がその中にあり、そこでありとあらゆることが繰り広げられているのです。神はまた、最も小さな原子よりもさらに極小となって、生きとし生けるものすべての中に住んでおられます。それゆえ、神に知られずにできることは何一つとしてありません。神は偏在で、すべてに浸透し、あらゆるものに内在している意識です。神はすべての人間の心臓の奥深くに、アートマ(内在の神)となって住んでおられます。人間の内なるアートマは、一なる神とまったく同じものです。すべてがアートマであり、すべてが神のあらわれなのです。それを認識できたとき、「私」「あなた」の区別は消えて一体性を認識します。マインドは思考と衝動の束なのです。絶え間ない修行と集中によって思考が消えれば、エゴである「私」「私のもの」も消えます。一点集中によってエゴが灰になれば、人間は無限の非人格となり、至福という大海を理解することができるのです。そこにあるのはアートマのみです。神のみが存在しているのです。肉体を自分そのものと同一視しすぎると、人間の本質である神性アートマの原理を見失ってしまいます。グナのたまり場であるマインドがいかに巧妙に人間をだまそうとするか、十分に注意し、そういう状況ではブッディ(識別力)を使わなければなりません。雑多な世事のなかでも神のことを想い、霊性修行をしてマインドを精妙にしなさい。神に自己を明け渡し、すべてを神にゆだねるのです。それは自身の内なる真の自己アートマに向かうということでもあります。神と一つになりたいと切望し、神と人とを愛すれば愛するほど、自己を明け渡すことが容易になります。これだけの愛が生まれるには、欲望でいっぱいのマインドをすべて空にしないといけない。心の平安とは、欲望のない状態です。神の恩寵を受け取るためにはマインドを空にし、ハートを愛で満たすことです。神意識を覚った者にとっては、まわりで起こることすべてがリーラ(遊び、戯れ)なのです。全世界が神のリーラなのです。ふりかかった虐待、批判、侮辱、憎しみ、怒りのすべてが受け取られずに、送り出した人たちに戻っていくのです。受け取り手のないものは、すべて送り手に戻ります。別の言い方をすれば、覚った存在は何でも受け入れます。受け入れるが、それらをとどめておくことはしないのです。覚った存在は戸口のようなもので、ものごとはただ通り過ぎていくだけで、何もそこにとどまれない。よってふりかかった闘いは、完全に『闘争のない状態』になり、どんな時も平安の状態を維持できるのです」
邪悪な波動から解放されたシッダーシュラマは平安に包まれ、あたりには神聖な雰囲気がただよいました。天の神々も空から花々を降らし、二人の王子を祝福しました。