結婚の儀式が終了すると、ダシャラタ王の一族はアヨーディヤーに向けて出発しました。その旅の途中、聖賢パラシュラーマが突然現れ、皆を驚かせました。パラシュラーマは、十六の聖なる光輝のうち自分にそなわっていた一つをラーマに譲り渡すという、神聖な目的のために現れたのです。完全なる神の化身は十六の光輝を具えています。ラーマには十二の光輝が、ラーマの三人の弟には三つの光輝がありました。そして残りの一つの光輝はパラシュラーマに具わっていました。ラーマの御足にひれ伏したときに、パラシュラーマはラーマに十六番目の光輝を手渡したのでした。これでラーマは完全なる神の化身としての神聖な力をすべて得ました。
その後一行はさらにアヨーディヤーへの道を進んで行きました。アヨーディヤーでは盛大な祝賀がかれらを待ち受けていました。大勢の人々が街頭に立ち並び、ダシャラタ王と四人の王子、そしてその花嫁たちを大変あたたかく出迎えました。ダシャラタ王の三人の妃たちも大変喜び、美しい花嫁たちをわが娘のように迎え、腕の中に抱きしめました。
結婚後十二年間、ラーマと三人の弟たちは国民の福祉のために父王の治める王国の仕事を助け、常に自分たちの徳を高めることを忘れませんでした。父と三人の母を自分のことのように愛し、敬い、かれらにより良く仕えました。そして自らも生き方の手本を示しながら、ラーマは人々に言いました。
「愛は一人ひとりの内にあります。しかしそれが利己的なものへと向けられると、愛着と呼ばれる執着に変わってしまいます。あなたがたは家庭の中で無私の愛、無償の愛を育んでいく必要があります。まずは、両親を敬うことを自分の努力義務としなければなりません。たとえどんな親であったとしても、両親のなかに自分とまったく同じ内なる神アートマが内在していることを認めるのです。そうすればあなたがたの心がけしだいで、両親にやさしい言葉をかけてあげることはできるはずです。そのやさしく思いやりのある言葉かけが、家庭の中に良い波動を生み出し、良い方向へとしだいに変容させてくれるのです。あなたがたが努力して両親を敬う姿勢をみせるなら、あなたがたの子供たちもまたあなたがたを敬うようになります。かんしゃくを起こさず、両親を愛しなさい。親をないがしろにしてはなりません。両親をいたわる優しい言葉が家庭の波動を清浄にし、家庭の中が喜びに満たされるのです。決して自分の両親に敬意を欠いた態度をとってはなりません。決して自分の振る舞いによって両親を泣かせるようなことがあってはなりません。あなたがたが両親を敬うなら、内なる神はあなたがたを禍から必ず護ります。両親の内にも自分とまったく同じ神アートマが宿っているのです。神を崇めるように両親を敬いなさい。両親を敬うことを通して神を敬うようにしなさい。あなたがたが親を幸せにするなら、必ず自分も幸せになれます。そして家庭の中で培った無私の愛を、あなたの地域、あなたの国、そして世界へと広げなさい。真に生きるとは愛することであり、他者のために生きることです。無私の愛をもっていれば、どんなことでも達成することができます。愛以外に私たちを護ってくれるものはありません。人を恨まず耐えある愛をもって困難に向き合うなら、その困難は最終的にはあなたがたに幸福を与えるようにできているのです。自己中心的な利得にしか関心を示さない世の中にしてはなりません。無私の心でなされる奉仕は、祈りや瞑想以上に優れた霊性修行です。真心をもって共に慈しみい合い分かち合って、平和に暮らしましょう」このようにラーマの生き方の基盤には、いつも愛(プレーマ)がありました。
ラーマ兄弟とその妻たちの間にも一体性と理解がありました。彼らは大変理想的な夫婦でした。一夫一婦制の原則を固く守り、結婚は生活の安定のためにあるのではなく、二人の個人が霊的に結合するためであり、それが神との融合へと至るための一つの過程に過ぎないということを理解していました。いわゆるそれは、プラクリティとパラマートマの結婚です。つまり、プラクリティ(物的個我)がパラマートマ(神の霊)と融合して一体になる、という覚りの境地を意味します。人間は肉体だけの存在ではありません。肉体の中に神の分霊である霊魂を宿す霊的存在です。肉体は魂の中のアートマを覚るための道具として与えられているのです。霊的存在である人間の結婚は、プラクリティ(物質的原理)と神の霊パラマートマ(霊的原理)の結合であるという真理を認識して、理想的な夫婦にならなければなりません。
霊性というのは、どうやったら死後に天国に行けるかということを教えるものではありません。霊性とは、いまの人生で人間に内在する神性に気づき、一体性の原理を探り、不二一元に到るためにはどうすればいいのかを教える科学なのです。霊性とは、感覚を抑制する技術でもあります。感覚から侵入してくる邪まな誘惑(グナ)に打ち克ち、人間が動物的な心のレベルから脱却して、神性へと至るための道を示してくれる教えなのです。
ラーマにはわずかな利己心もありませんでした。ラーマが考え、話し、行ったことはすべて他者のためでした。ラーマはさらに国民に向けてメッセージを発しました。
「宇宙は大きな家であり、世界の人々は皆一つの家族です。神は全宇宙に浸透しています。無限大に広がる神の体の中で、あらゆることが繰り広げられているのです。そしてまた、神はもっとも小さな光となってあなたがたのハートの中に住んでいます。その神をあなたがたのハートの中に見つけなさい。どこか遠くまで神を探しに行く必要はありません。人間一人ひとりの心臓で鼓動しているのは、まさに神なのです。身体は神の住む寺院です。よってあなたがたのすべての行為と想いと言葉が、身体の内なる神アートマに捧げられる礼拝になる必要があります。五感を常に清らかに保ち、磨いて、内なる神への礼拝が敬虔に行われるようにしなければなりません。あなたがたは家庭にしろ職場にしろ、その日の行為のすべてを内なる神への礼拝にしよう、と自分に言い聞かせれば、そのようになるのです。人間の内に宇宙の力が宿っています。霊性とはまさに生命の科学であり、多様性の中に一なる神があるのみです。すべてが一なる神の顕われです。人間の外見は人によって異なりますが、各自に宿っている神性アートマはまったく同じです。すべての人のハートに宿っているアートマは、肉眼では見えない超意識の世界で一つに結びついて一体になっています。これが一体性の原理です。神が創造したあらゆるものの背後には一体性があることを理解し、人は常に内的に一体性の態度を持っていなければなりません。本当の成長は愛から生まれる一体感の中で起こります。すべての人の中に神を見るようにしなさい。人の短所を気にせず、姿形にとらわれず、エゴさえも見過ごし、一人ひとりの中にまるで赤子のように純真な太陽のように輝く光(アートマ)を見なさい。アートマは万人の中核に存在していると信じるなら、神性アートマはあなたがたの内に共鳴的な振動を生み出します。それゆえ他の人が幸せであれば、あなたも幸せに感じ、他の人が悲嘆の中にあれば、あなたも同じくらい悲しく感じるのです。それがプレーマ、すなわち最も気高く、最も誠実な愛なのです。すべての瞬間を、他人に益をもたらすように生きなさい。神は、私たち全員の中に種子の形で存在しているのです。それを芽生えさせるのは、思いやりという水だけです。あなたがたの内なる真の自己は、愛ある思いやりによって目覚めるのです。皆さんは、すべての人に同じアートマの原理が内在していることを知覚できるレベルまで、向上しなければなりません。それゆえ神の御名の唱名や光明瞑想が推奨されているのです。しかし、座ってする瞑想だけが霊性修行ではありません。仕事をしているときも、家事をしているときも、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為しなさい。食事のときも、入浴しているときも、歩いているときも常に心の中で神を想うようにしなさい。あらゆる災難からあなたがたを護ってくれるのは、内なる神性アートマなのです。遠くまで行って神を探す必要はありません。あなたの内なる神に心を向けるだけていいのです。神はすべての人に内在しています。誰をも非難してはなりません。誰をも傷つけてはなりません。人は自分を傷つけた人にさえ、善行をなすべきです。憎悪や怒りや妬み、貪欲といった否定的な性質をそのままにしておくと、大変危険です。それはしだいに動物的傾向を強めていき、必ず悪い結果を招くことになります。誰をも憎んではなりません。誰にも悪意を抱いてはなりません。神はあなたが何を為したかよりも、どういう動機で為したのか、行いの背後にある動機だけを調べます。行動の動機が、純粋で誠実かどうかだけをみます。名声や称賛を念頭におかず、人々に対する善行のみを考えなさい。有名になることを求めず、自分が奉仕した人の顔に輝く喜びを求めなさい。ハートの中に神聖な愛を増やしなさい。その愛はあなたの人生を救うだけでなく、あなたの周りのすべての幸福を増やすのです。人間は社会の中に生を受けた以上、社会の幸福と進歩のために働く義務があります」
人間の意識レベルには四つの段階があります。最も低い意識は、自分のことしか考えられない人で、自分さえよければいいといった行動にでます。このように自己中心的な人は善よりも害悪をつくりだしてしまいます。次のレベルは、利害関係でしか人を扱わない人です。その上の段階は、まず他者のことを考え、その次に自分のために何かを求める人です。最高の段階は、自分のことはまったく忘れ、他者のことのみを考えるといった無私の愛、無償の愛をもっている人です。犠牲的愛を持ちながら、人のために自分を役立たせることに喜びを感じる人です。人間はこの四つの意識段階を順次経験して、人格形成の道をたどるのです。
ラーマは人間の意識状態を引きあげることに力を尽くしました。そしてこう述べました。
「目には幾百万もの光線があります。この光線は不浄を見ることによって破壊されます。すべての感覚は誤用されると識別力を失うのです。善なるものだけを見るようになるためには、見るという行為をコントロールできてはじめて成し遂げられるのです。多くの人がどこへ行っても他人の短所や欠点を見つけます。そのために心(マインド)は落ち着かなくなります。この習慣を変えなければいけません。それは相手の短所に目をつぶるということではありません。たとえ彼らに短所があっても、その短所のまま彼らを受け入れ、愛するということです。どんな時も彼らの中にある魂の力、すなわち内なる神性アートマを信じ続けるのです。そうすれば彼ら自身、いつかその内なる力に気づき、自分の心をもっと高めたいと望むようになるでしょう。それぞれの人に適切な時機があるのです。他の人を、自分より劣っていると見くだしてはなりません。非道徳な行為だけを嫌い、人を嫌うべきではないのです。肉体は異なっていても、すべての人に内在するアートマはまったく同じであるという一体性を感じることができれば、自他の区別はなくなり、他人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じであるとの気づきが与えられます。他の人の喜びは自分の喜びであり、他の人の悲しみは自分の悲しみと感じられる聖域があるのです。実際、すべての人のアートマは一つに結びついて一体になっています。それが理解できれば、大地のように何でも受け入れられる忍耐強さが育まれます。そして自分の清らかな想いが、言葉や行いにあらわれるようになります。他人の欠点を忘れ、いたるところでいつも良い面だけを見るようにしましょう。そうやって見るという行為をコントロールできれば、純粋な想いを増やし、不純な想いを破壊することができます。こうしてエゴを減らしていくと、他人の喜んでいる姿を見て満足感を得るようになるのです。心の中にある本質を正しく役立たせるためには感覚の抑制、心の訓練は不可欠です。そのことによって心の平安が保たれるからです。神への愛は、人への愛を通して神に届くのです」
人々は、ラーマの神性から発せられる英知の言葉に聞き入りました。
人々に奉仕するときのラーマの行為には、いつでも格別な魅力と美しさがありました。それは一つひとつの行為に注ぐラーマの途方もなく深い愛情からにじみ出るものでした。ラーマは機械的に振る舞ったことは一度もありませんでした。いかに人を愛し、どのように仕事に愛を込めるかを知っていました。報いを全く期待しないラーマの無私無欲の犠牲的愛が、行いの一つひとつを価値あるものにしました。人々がそれぞれの違いを超えて一体となれたのは、このようなラーマの導きによるものでした。ラーマは神を崇めるように父ダシャラタを敬い、父の命令に従い、王国と国民のためにはたらきました。ラーマは機会あるごとに、三人の母や王国のすべての人たちに誠意のかぎりを尽くしました。このようにラーマは自ら手本を示しながら、人々を精神的に向上させることに力を尽くしました。
ある日のこと、ケーカヤ国からバラタの叔父が来訪されました。ダシャラタ王はカイケーイー妃の息子バラタを呼んで言いました。「バラタよ、ケーカヤ国からそなたの母方の伯父であるユダージェットが来られ、そなたを祖国に連れて行きたいと言っておられる。出かける準備をしなさい」バラタは父ダシャラタのことばに従い、異母弟シャトルグナを伴ってラーマとラクシュマナそして三人の母に挨拶をして、伯父のユダージェットと一緒にケーカヤ国へと出発しました。祖国に到着すると、ケーカヤ国の王は孫のバラタを見て大変喜ばれました。