現象世界プラクリティに潜む三つの性質(グナ)について
人体は食物鞘と呼ばれる肉体だけではなく、生気鞘(エーテル体)、心の鞘(アストラル体)、理智鞘(メンタル体)、歓喜鞘(霊体、魂)という五つの鞘、五つの体で構成されています。この五つの鞘をもつ人体は、霊の宿泊所であって、自己の心と感応するいろいろな高級霊や低級霊を入れることができる容器のようになっています。ヴェーダでは、人の感覚から侵入して心の鞘(マインド)に住みつく霊を、その性質に応じて浄性サットワ、激性ラジャス、鈍性タマスの三つの性質(グナ)に分類しています。人間はこの三つのグナの影響を受けて、自分の性格の中に浄性、激性、鈍性の三性質を持っています。人の心の鞘(マインド)はグナの住みかになっていて、その三つのグナの配合比率は人によって異なりますが、どの性質(グナ)が優勢かは、前世から持ち越してきた潜在的性向(ヴァーサナ)によります。人間は自分の内面を見つめて、鈍性を破壊し、激性を改善して浄性を育てなくてはなりません。
現象世界プラクリティには、鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワの三つの性質(グナ)が存在していて、人間を束縛します。すべての人は、人間の目には見えないグナによって否応なく行為させられているのです。そのグナが人間の欲望を増やしたり、エゴを膨らましたり、ものごとに執着させたりしているのです。外的な対象物に執着することによって生じたエゴは、外から人間の感覚器官をとおして侵入してくるグナによって増幅されます。そのようにして人間は外界から受けた印象を自分の中に取り込んで、それを真実と見なしてしまうのです。だからエゴは有害です。マインドに住みつくグナによって感覚の奴隷になっていると、エゴは膨らみます。自分自身が感覚の支配者になってエゴを克服していかなければなりません。すべての人間がこのグナの作用を受けて、自分の性格の中に鈍性、激性、浄性の三性質を持っています。マインドはグナのたまり場であり、グナの住み家です。つねに神性アートマを覆い隠しているものはマインド、すなわちエゴです。人間の本質であるアートマを覆い隠しているエゴを感覚の抑制によって超越して、内なる神性アートマが輝き出るようにしなければなりません。そのためには、自分の意識を内面に向ける必要があります。サットワ的なグナには解脱への欲求が備わっているので、人の内に存在するサットワ的なグナが優勢となるよう育てていかなければなりません。自分の内なる神アートマに心を向け、神への信愛を深めていくならば、神は必ず救いの手を差し伸べてくれます。神に向けられた思いが、他のいかなる欲望よりも強いのが最善の状態です。神への愛をもつ者を、神は見捨てておくことはできないのです。神はあなたから遠く離れたところにいるのではありません。あなたのすぐ近くに、あなたの内に、アートマ(内在の神)となって住んでいるのです。この内なる神アートマこそがあなたがたの人生の導き手であり、あなたがたを護ってくれる唯一の存在です。あなたの内なる神アートマに信頼をおきなさい。アートマを探求し、アートマにもっと近づきなさい。そしてアートマと一つになりなさい。人間は因果律(カルマ)による苦楽を体験する中で、神性をそなえた内なる真の自己の存在に気づき、人格を磨いて低我から高我へと成長して真の愛(プレーマ)を培い、個我が真我アートマに融合するまで人生の霊的巡礼の旅は続くのです。個我がアートマの真理に到達し融合したとき、グナの束縛から完全に解放されてエゴが消滅し、真の自由(解脱)を得るのです。そしてアートマの至福のなかで永遠に生き続けることができるのです。苦楽を体験して、喜びから感謝することを、苦しみから忍耐することを学んで糧としなさい。耐えある愛には、潤滑油のはたらきがあります。喜びも苦しみも、すべては神に近づくための機会なのです。
人は、外部から感覚を通して侵入してきたグナの刺激や誘惑にすぐに反応し、さまざまな感情や欲望が湧き上がります。感覚を野放しにしていると、グナは自分の欲望を満たそうとその人間を操ります。欲望が増えると、執着も増します。人に反応するように誘うのが、グナの住みかになっているマインドです。感覚を野放しにしていると、グナに操られグナの言いなりになってしまいます。そしてグナの住みかであるマインドで湧き上がった思いを、自分自身の思いとして受け入れてしまうのです。いわゆるグナの奴隷になっている状態です。このようにグナは人間を束縛します。訓練されていない心(マインド)に生まれるエゴはあまりに強力なので、人は内なる神性を見失ってしまいます。グナの住みかであるマインドで生じたエゴは、とても油断のならないずる賢いものであることを心に留めておくことは大変重要なことです。霊的に進んだ求道者であっても、エゴの罠にはまり得ることがあるのです。現象世界に潜在する三つのグナの束縛を受けてマインドの奴隷になっているうちは、真の自由はありません。自分とは肉体であるという意識をもってなされた行為は、すべてグナの束縛を受けます。マインドで突き動かされた衝動を自分のものとして受け入れてしまうと、人は感覚のおもちゃになってしまうのです。人はグナによって操られ、グナによって感覚のおもちゃにされてしまうのです。神はあらゆるところに存在し、かつあらゆるものの中に神は内在しているという深い信仰をもって、あなたが内なる神性アートマに信頼を置くなら、あなたは決してグナの束縛を受けることはありません。あらゆるものの内にアートマが内在していると見るなら、あなたの行為はすべて神への礼拝へと変容し、高められ、束縛を受ける要素は消え去ります。アートマの神秘に気づいたとき、感覚や現象世界の奴隷でいるという重荷は軽減されます。それゆえ感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるために、常に神を思い起こし、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すことが重要なのです。神を思い起こすとは、感官に向いているマインドを内なる神の方に向かせるということです。常に神を思い起こし、心(マインド)に入ってきた思いが正しいかどうか、内在の神の御心にかなうことかどうか、これらの質問を内なる神に伝え、自分の思いを吟味する訓練を続けていかなければなりません。そうしないと、心の落着きを取り戻すことはできません。マインドの言いなりになるのではなく、神を思い起こして、自分の行いのすべてを神に捧げる思いをもって為すならば、マインドは神の方を向くようになります。こうした努力によって、内なる神がブッディ(識別する知性)を通してはたらくのを実感するようになるでしょう。つねに神を思い起こしているなら、人間の理智鞘にあるブッディ(識別する英知)をとおして内なる神性意識(良心)がはたらき、識別して行動する力(ブッディ)が活動をはじめるようになります。ハートの扉が開いて、内なる神の恩寵が流れ込み、善へと導かれるのです。こうして感官に向いているマインドを内なる神の方に向けて心を浄めていくならば、グナの束縛、つまりエゴの支配から完全に解放されて、あらゆる執着から解き放され、真の自由(解脱)を得るでしょう。
わたしたちが感覚を野放しにしていると、その感覚からグナが侵入してきて、グナは自分の欲望を満たそうとその人間を操ります。心(マインド)とは欲望のクモの巣のようなもので、そこには平安はありません。心の平安とは欲望のない状態であり、その状態では心は存在しません。いわば心(マインド)が消滅した状態です。あるのはハート(良心)という意識のみです。わたしたちが妬みや憎しみをもっていると、その波動に引き寄せられて、グナはさらにその思いを強めます。グナは自分と似た波動をもつ人体にとりついて、彼らはそこを住み家としてしまいます。心を常に揺れ動くことなく、不変かつおだやかな状態に保ち、エゴをはたらかすことなく、常に無我無私の状態に保ったときのみ、神によって高次元の意識は出現するのです。自分の感覚を抑制せず、想念を野放しにしていると、自分だけではなく、家族にも社会にもその影響は広がります。自分の想念によって他に悪い影響を及ぼすことがないよう、自分の想念を管理することは、人間としての義務なのです。
わたしたちが神との間に友情を築けば、三つのグナがすべて離れてしまいます。すなわちエゴが消えるのです。神への想いと、神に対する熱烈な愛だけが平安をもたらします。世俗的な想念が減少するにしたがって、神への想いが増します。欲望が一つひとつ取り除かれるにしたがって、平安が強められていきます。グナが住みつくマインドは欲望のクモの巣のようなもので、そこには平安はありません。欲望が一つひとつ無くなっていけば、思考と衝動の束であるマインドが消滅します。そうすれば平安が得られます。マインド(心)は欲望です。マインドが消えれば欲望は消えるのです。あなた自身が平安を得るための努力をする必要があります。自分の行いのすべてを神に捧げる想いをもって、自分の為すべき仕事を神の御名においてただひたすら誠実に行い、その行いの結果はすべて神に全託することです。行為の成果を求ず、行いの結果を神にゆだねるならば、カルマによる束縛をうけることはありません。このようにすれば、エゴは養分を与えられることも育てられることもないので、まもなく消滅します。全託とは、神の御名においてすべての行為を行うということだけではありません。神への全託とは、全宇宙が神の身体であると認識された状態です。
私たちの不安と恐怖は、悪しきグナたちの養分です。それゆえ私たちは、決して恐怖感や不安感にとらわれてしまってはなりません。自分の内なる神アートマを信じて、自信をもつことが絶対に必要です。すべての不安感や恐怖感の支配から自由になることが、どうしても必要です。不安感や恐怖感は有害で、すべてに適応できなくさせます。しかし、自分の内なる神性アートマに信頼を置き、自分自身を純粋に保ち、常に神を思い起こして、行いのすべてを神に捧げる思いをもって神の御名において誠実に為すならば、何も恐れる必要はありません。
大切なのは、快と苦、喜びと悲しみに左右されることのない平静さを育てることです。否定的な感情や怒りなどの激情は、破壊的な作用をアストラル体に及ぼし、肉体まで害します。どんな喜びにも有頂天にならず、どんな苦痛にも打ちひしがれることなく、何が起きても怒りでキレてしまったりせず、将来に不安や恐れを抱くこともなく、どんな状況になってもオロオロ取り乱したりしないよう、自分の態度に注意を向けることです。わたしたちは喜びから感謝することを学び、苦しみから忍耐することを学んでいるのです。このようにして努力を重ねていくと、魂の中が浄化されて、ある日、ふと体内に内的平静さが感じとれるようになります。この内的おだやかさが、悪から自分を遠ざけてくれる妙薬となるのです。
どんな人や物の中にも、良きもの、優れたもの、美しいものを見いだそうとするのです。そうすれば、醜い表面の背後には美しいものが隠されていること、犯罪者の姿の背後には善なるものが隠されていること、狂気の背後には神々しい霊魂が隠されていることに気づくでしょう。この修行は、「批判の抑制」ということに結びついています。自分の個性だけで判断し、自分の共感や反感だけにしたがって評価することと、愛をもって対象に向かい、この対象はどうしてこのような性質をあらわしているのかと問うこととのあいだには、大きな違いがあります。このように愛をもって対象に向かい、肯定的な態度を身につけていくと、一種の浄福感が魂の中に湧いてくるのを認めることができるでしょう。
内的平静によって、内部から騒々しい思いを遮断する力を自分の中に育てていかなければなりません。感覚を抑制して内的平静さを保つことができれば、感覚から侵入してくる騒々しさから自分を遠ざけることができ、真の幸福に浸ることができるのです。
人間の欲望にとりつくグナは、五官と心(マインド)を住処とし、ブッディ(識別する純粋知性)を覆い隠して人間を迷わせる。心は感覚よりすぐれ、ブッディは心よりすぐれている。だがアートマはブッディよりも上位である。アートマが最上であることを知って、その霊的知性によって心(マインド)を統御し、「欲」という名の恐るべき敵(グナ)、すなわちエゴを征服せよ。
五つの鞘で構成されている人体は、霊を入れる容器のようになっていて、いろいろの場合に、いろいろの霊がかかってきて、いろいろのことを思わせたり、させたりするのです。人間の心(マインド)というものは実にくるくると変わるもので、あるときは自分ながら神かと思うばかり高潔清廉な心境のときもあり、ときによっては自分ながら愛想がつきるほどいやな狭い卑劣な考えに振り回されているときもあります。いわば人間の肉体は一つの生きている管です。その中を霊が流れているのです。この管を清浄にして、神の恩寵がはたらくよう聖霊の霊流をわれとわが手で妨げぬように注意しなければなりません。五つの鞘をもつ人間の肉体は霊の容器であって、守護霊が代わったり精霊が交代したりもします。また浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性ママスの混合状態にある場合もあり、この三つのグナの混合の割合も時によっていろいろです。時にはサットワ優勢でラジャスとタマスを制し、時にはラジャス優勢でサットワとタマスを抑え、時にはタマス優勢でサットワとラジャスを支配する。このようにして三つの性質(グナ)は常に競争しています。ゆえに、人間は自分の感覚を制御してこの三つのグナ(鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワ)を振り捨てなければなりません。感覚器官は、現象世界プラクリティの中に存在する三つのグナの作用を受けて、善悪はすべて自分自身の中から生じているのです。この三性質(グナ)の配合がほぼバランスよく混じりあっているならば、人間の本性が目に見えて大きく変化することはありませんが、この三性質(グナ)の配合が乱れたり、そのうちの一つが突出しだして自己主張をはじめると、目に見える激しい変化が自分に起こるのです。それらの霊は、地上に生きている人間の心のかまえ方相応に引き寄せられ、どんな霊を引き寄せたかによってその人の気分も変わり、またその人の周囲から受ける環境や待遇もガラリと変わります。ゆえに人はあくまでも神を敬い、それぞれに努力精進して神の容れものとなって、大いに宇宙完成のためにはたらかねばなりません。本来、肉体は神の生き宮であり、人間は宇宙完成のための道具なのです。
真に神を慕っている者たちだけが、マーヤー、すなわちマインド(エゴ)を征服することができます。わたしたちが常に神を憶念し、神への信愛を深め、神との間に友情を築けば、三つのグナがすべて離れてしまいます。すなわちエゴが消えるのです。
マインドはグナのたまり場であり、グナの住み家になっている。そのマインドによってもたらされる思いはもともとあなたのものではないから、取り除かれないかぎり、あなたはいつまでも休みなく落ち着かない。だから怒りが表れたら、ただそれを眺める。大空の中で雲が通り過ぎて行くのをただ眺めているのと同じように、湧いてきた思いをただじっと眺めていると、通り過ぎる雲のようにその思いは消えていく。このように心(マインド)は、見つめられ調べられると消えていくのです。
自分のカルマの結果、グナを引き寄せ、そのエゴがそれぞれ仕切りをつくって、神の霊流を妨げている。エゴは部分部分の輪郭を形づくる壁のようなもの。だからエゴを取り除きなさい。そうすればあなたは再び空間になる。神は形ではなく空間そのものだから、何でも入れることができる。すべてがその空間に収まり、それでもその空間には、空きがたくさんある。そこは無限の空間、無尽蔵の空間である。神の霊流を妨げないようにするために、感覚の抑制に取り組み、エゴによってつくられた壁を取り除きなさい。エゴがつくった仕切りを取り除き、あなたの内面のすき間をもっともっと大きくして神が入っていけるようにすれば、時が来て、神はエゴが押し出されるように取り計らって、あなたのハート全体は神だけでいっぱいになる。
人間の感覚は、外界プラクリティの中に潜んでいる浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマスの三つの性質(グナ)によって左右されます。人間は通常の生活の中で、浄性サットワに結びついて知識欲に燃えたり善行に熱中したりします。また激性ラジャスを通して物質的利欲に執着して渇望と激情に結びつきます。そして鈍性タマスを通してだらしなさやいいかげんさが現れ、惰眠や無気力に結びつきます。
浄性サットワと結びついている人は、知識欲と幸福と善行に熱中します。激性ラジャスが求める生活と結びついている人は、外的な生活に喜びを見いだそうと物質的利得と名声に執着し、物事に対する強烈な執着と激情と際限のない渇望にはしります。鈍性タマスを通して結びついている人は惰眠・怠惰・無気力・無知・妄想・狂気に束縛され、だらしなく、いいかげんになります。
賢者の魂は、まず鈍性タマスの支配から自由にならなければなりません。惰眠とだらしなさや、いいかげんさという外界との関係から離れなければなりません。鈍性タマスの支配から自由になり、惰眠や一切のだらしなさと一切のいいかげんさがなくなれば、魂は外界の激性ラジャスと浄性サットワの関係だけをもちます。次に激性ラジャスの支配から自由になって、際限のない欲望や執着・激情、渇望をも根滅すると、浄性サットワによる外界との関係が身近になります。しかし、人が自分の善と認識による一切のこだわりを捨てて浄性サットワから自由になると、ダルマの実践による善、つまり神の摂理による善が当然の義務となり、その人はサットワとの関係も脱ぎ捨てます。こうして三つのグナ(鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワ)のすべてを脱ぎ捨てた人は、外的な形態との一切の関係から離れたのです。すべてを超越するというのは、鈍性タマス・激性ラジャス・浄性サットワとの関係性のすべてを脱ぎ捨てることなのです。この三つのグナを脱ぎ捨ててしまったら、そしてまた人間を構成する5つの鞘を脱ぎ捨てたなら、自分の本性を覚り、絶対なる一者と融合して覚りの境地に到るのです。人間の本質アートマと絶対なる一者ブラフマーは同一であり、すべてがこの絶対なる一者(ブラフマー)のあらわれなのです。
宇宙には三つのグナ、すなわち浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマスが遍満しています。この現象世界プラクリティには三つの性質(グナ)のはたらきが影響しあっていて、この三性質の力がすみずみまで行き渡って、プラクリティはあらゆる被造物の運命を司っています。祝福も死別も、喜びも悲しみも、利得も損失も、すべては現象世界プラクリティから来ます。この地上でのすべての多様な経験は、この三つのグナから生じます。神が充満している宇宙において、人間はこの三つのグナを超えることによって、まず自分の人生を聖化しようと努めるべきです。霊性の道は、創造主の性質を探究し、最後には創造主と一つになることを目ざしています。生物と無生物とから成る全宇宙には、三つのグナがすみずみまで行き渡っています。人間はこの三つのグナを超える原理を理解するよう努力すべきです。人間の中には神が内在していますが、グナの中にはもう神はいません。しかし、宇宙を包括するほどの広大な神の身体の中にはグナも存在しています。
以下は、「科学で解くバカヴァッド・ギーター」(たま出版)より抜粋
前世から持ち越してきた性格と性質と能力などの潜在的傾向(ヴァーサナ)が、三つのグナである浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマスの中のどのグナが優位となるかを決めている。もしも人が浄性サットワ優位のときに死ねば、最高の真理を知る者たちの汚れなき世界に達するのだ。激性ラジャス優位のときに死ねば、自分の利得だけを求めて行為に執着する者たちの間に生まれる。鈍性タマス優位のときに死ねば、無知蒙昧な者たちの間に生まれるのだ。浄性を育てることによって、世俗的智慧から宗教的な智慧が生まれて霊的智慧へと高められ、それがさらに浄化されて絶対者ブラフマーの智慧となるのである。
行為は、三つのグナ(浄性サットワ・激性ラジャス・鈍性タマス)によって行われているのである。名誉・不名誉、敵・味方も同じとみなし、一切の企てを捨ててこの三つのグナを超越した者は、どんな環境の中でも自分の周囲の出来事に煩わされず、傍観者のように平静で落ち着いている。動揺せずに冷静に観察し、ただ三つのグナが活動しているだけだと考えて、安住して動かないのだ。三性質を超越した人物の場合には心はプリズムの働きをしないので、この三つのグナは分化することなく、未顕現のままでいるのである。その人物は、苦楽を平等にみなして自分に満足し、土くれや石ころや黄金も等しいものとみなし、好ましい事と好ましくない事とを同一とみなし、毀誉褒貶も同一とみなすのだ。好きと嫌い、賞賛と非難、名誉と不名誉、友と敵のような二極の対立感情は、無限の意識をそれぞれ違った徳性に分割する心のプリズムによって生じるのである。しかし何事にも心が動じず穏やかで、分子の振動を起こさない心をもった人物の場合は意識が分裂することもなく、その心はすべてのものを一つの分割されない不変の絶対者ブラフマーとしていたる所に見るのである。
どんな環境においても平静でいられる者は、この三性質(グナ)を超越しているといわれるのである。バクティ・ヨーガと呼ばれる神への信愛のヨーガを行じて、常に心を静ひつにして神のことを考え、思いと言葉と行いを浄め、神の御名を唱えて、神の栄光を讃える人物は三性質(グナ)を超越して神と合一するのである。常に神のことを考えて、神の恩寵以外については考えないことが、真摯な信仰心と呼ばれるものである。
諸処の行為のすべては、現象世界プラクリティの中の三性質(グナ)のみによって行われ、真我アートマは行為者ではないと見る者は、真に見る者なのだ。万物の心臓の中に宿る真我アートマは沈黙した観察者であり、行為の遂行者ではない。真我アートマには生も死もなく、永遠不滅である。この真我アートマには始まりも終わりもない。真我アートマは永遠に清浄であり、汚されることはないのである。眼に見えない電波はすべてのものに浸透し、受信装置を同調させることができる。電波は微細であるから物質の中を進んでも、それに影響されることはない。空元素は電波より微細であり、真我アートマはこの空元素よりもさらに微細である。それゆえに、真我アートマはすべてのものに浸透し、しかも他のものの影響をまったく受けないのである。アートマとブラフマーは、同一のものである。一つの太陽がこの全世界を照らすように、すべてのものの中に内在するアートマはその純粋意識ですべてを照らし出しているのである。
感覚を抑制して、自分の心(マインド)のコントロールに努めることがいかに重要か。
それをわかっていただくために、「現象世界に潜む三つのグナ」を取り上げました。しかし、私たちはすべてをグナのせいにしてはなりません。自分自身が自分の内面を見つめて感覚の抑制に努めるならば、悪質なグナを引き寄せることはないのです。自分の心を正しく管理する責任は、自分にあるのです。感覚から侵入してくる思いを抑制してマインドを神性の方へと向けると、マインドのはたらきが静まり、ハートの扉、すなわち真理の扉が開いて、神性意識(良心)によって活動を始めるようになります。どのように心(マインド)をコントロールすればいいのかを私たちに教えてくれるのが、霊性なのです。